caguirofie

哲学いろいろ

ゴータマ・ア‐ブッダのいんちき

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

▲ (さん‐げだつもん 【三解脱門】)

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 仏語。解脱に至る方法である3種の三昧(さんまい)。

 一切を空と観ずる空解脱、
 一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、
 その上でさらに願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱。

 三三昧(さんざんまい)。
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 ◇ 《空》だから、《無自性》だから、《無相(特徴がない)》だから、《無願(執著の対象にならない)》だから。
 ☆ 分かりません。こんなの分かるんですか?

 《空解脱》は 色即是空ですね。

 《無相解脱》は 人間には無理でしょう。
 すなわち 《無相》と見たとき その認識は《無相》というひとつの相となっている。人間には その文字通りの無相の成就は 無理です。
 

 《無願解脱》も 無理です。同じ論理です。
 すなわち 《願求の念を捨てる》というとき その捨てるという意志には 願いや望みや欲求がふくまれています。

 ハカラヒ無きを自然(じねん)と言うと言っても ハカラヒを無くすことが ハカラヒであるのですから。




ブッダブッダではない。ゆえにブッダといわれる。

  ブッダブッダではない。ゆえにブッダといわれる。
  ゴータマ・ブッダブッダではない。ゆえにブッダといわれる?
  で、いいんだろうか?

▲ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 「スブーティよ、こう考えなさい。
 特徴があると断じれば、偽りであり、
 特徴がないと断じるなら、偽りである。
 特徴があること、かつ、特徴がないこと、
 その両方から、如来を見なければならない。」
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 ☆ これは 次のように解釈できます。

 ○ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 (あ) 《特徴があると断じれば 偽りである》のが 如来である。
 (い) 《特徴がないと断じるなら、偽りである》のも 如来である。
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 ☆ と言ったのなら もう次の命題は 成り立たない。

 ○ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 (う)《特徴があること、かつ、特徴がないこと》
  その両方から、如来を見て 
  その何であるかを知らなければならない。」
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 ☆ なぜなら 《両方から見る》のならば (あ)にも(い)にも違反しているゆえ。


“Suññato lokaṃ avekkhassu,
Mogharāja sadā sato;
Attānudiṭṭhiṃ ūhacca,
Evaṃ maccutaro siyā;
Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ,
Maccurājā na passatī”ti.
 第5 彼岸にいたる道の章 16、学生モーガラージャの質問
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1116 モーガラージャさんがたずねた、
「わたくしはかってシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と、わたくしは聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも、誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。

1118 このように絶妙な見者におたずねしょうとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

1119 (ブッダが答えた)、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
Mogharāja:愚鈍王
sadā: つねに
sato:sata:百。
sata: adj.( sarati √smr の pp. skt. smrta) 憶念せる、念の、念あり、正念の
 // adj. ( =sat < as の ppr.(present participle)) 正、善、妙の
sarati (1) (√sr)行く。流れる (2)(= sumarati) 記憶す、想う
Attānudiṭṭhiṃ ūhacca
attan:( aatman )自己 nom.attaa  pl.nom.voc.acc. attaa / attaano
nudati (skt. nud) 除く、排除す aor. nudi
dittha (1)a. (skt. drsta dassati のpp) 見られたる、 所見
ditthi f. (skt. drsti) 見、見解、意見、特に謬見
uuhacca adv. (1) ( uuharati < ud-hr の ger.= -ya, -tya)掲げて、挙げて;引き出して、除いて(2)( uuhanati < ud-han の ger.)脱糞して
Evaṃ :adv. かく、かくのごとく
maccu: m. (skt. mrtyu)死 死神、悪魔、魔王、死王
taro :tarati (1)( tr) 渡る、超える、横切る
tara a. 渡る、度脱の
siyā→ atthi(akt. asti) opt. siyaa, assa, assam, assu
act. sg.1: siyam, siyaa, assam; pl.1:assaama
sg.2: siyaa, assa ; pl.2: assatha
sg.3: siyaa, assa ;pl.3:siyum, assu
avekkhantaṃ: present active participle (ppr)
・・・現在能動語基に -t (-nt ), -nta, -maana, -aana等を接尾する。
na:adv. なし(2) adv. ( nu の代わり) かどうか(3) pron. ( ta の代わり) それ
passatī:passati:( pas skt. pasyati)見る;見い出す、知る
”ti.
Mogharāja
māṇava:学童、青年、若いバラモン
pucchā, pucchana:f. (pucchati) 質問
§5.16(1119番)若いバラモンのモーガ-ラージャ(愚鈍-王)の質問
《空っぽなるさま〔と〕( Suññato ) 世界‐を( loka-ṃ )見なさい( avekkhassu )。
モーガラージャよ( Mogharāja ) つねに( sadā ) 心に思って( sato )〔いなさい〕;
自己( Attānu- )〔の〕見解-を( -diṭṭh-iṃ ) 掲げ〔または 取り除き〕‐つつ(ūhac-ca ),
このように( Evaṃ )死〔を〕乗り越えたさまに( maccu-taro ) あられたし( siyā );
このように( Evaṃ ) 世界を( lokaṃ ) 見る‐者‐を( avekkha-nta-ṃ ),
死‐王は( Maccu-rājā ) 無い( na ) 見い出す( passati )》と( iti )。