親鸞――吉本隆明
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
親鸞再々考――吉本隆明の〈非知〉に触れて――
▼ (吉本隆明の親鸞に見る〈非知〉) 〜〜〜〜〜〜〜
(あ) 親鸞は
念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能能(よくよく)
学ストモ、一文不知ノ愚とんの身にナシテ、尼入道ノ
無ち(無知)ノともがらニ同(おなじう)しテ、ちしゃ(知者)
ノふるまいヲせずして、只一かうに念仏すべし
(法然:「一枚起請文」)
という法然の垂訓を祖述しているだけかもしれない。けれども法然と親鸞とは紙一枚で微妙にちがっている。
(い) 法然では「たとひ一代ノ法ヲ能能(よくよく)学ストモ、一文不知ノ愚とんの身にナシテ」という言葉は 自力信心を排除する方便としてつかわれているふしがある。親鸞には この課題そのものが信仰のほとんどすべてで たんに知識をすてよ 愚になれ 知者ぶるなという程度の問題ではなかった。つきつめてゆけば 信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題であった。そして これが云いようもなく難しいことをよく知っていた。
(う) 親鸞は 〈知〉の頂きを極めたところで かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。しかし〈非知〉は どんなに「そのまま」(* ここに傍点あり)寂か(* sic )に着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の親鸞の課題だが どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の だが深い淵が横たわっている。
(え) なぜならば〈無智〉を荷っている人々は それ自体の存在であり 浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠いから じぶんではどんな〈はからい〉ももたない。かれは浄土に近づくために 絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段ももっていない。これこそ本願他力の思想にとって 究極の境涯でなければならない。
(吉本隆明:《最後の親鸞》 『増補 最後の親鸞』 1981所収 pp.7-8 なお初出は 1974)
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☆ (1) 女性蔑視の思想は 措いておきます。
(2) (え)の段落は 分かりづらい。たとえば:
(2−1) 《浄土に近づくために 絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段ももっていない》という判断は 《ハカラヒ》ではないのか? 《絶対》を《媒介として》捉えるところが気に食わない。
あるいは:
(2−2) 《〈無智〉を荷っている人々》は 《浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠い》だけではなく 《浄土そのものに 理念や思考や修行なる努力によって到ることからもっとも遠い》はずである。と言うべきではないか?
すなわち:
( 2−3) 上の( 2−2)に見るように《浄土の理念》を掲げるところがすでに ( 2−1)に見えるように絶対他力だと言っていても どこか《人間のハカラヒ》が忍び込んでいるように見える所以である。のではないか?
(3) よって 吉本の言う〈非知〉は われわれの仮説する《非知》とは一線を画すと言わねばならない。
《〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の親鸞の課題だが どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の だが深い淵が横たわっている。》とは どういうことか?
すなわち 《無知と知》とは 同じ地平に並立するふたつの概念であるが 《非知》はそうではないはずだ。
(4) 《〈知〉の頂きを極めたところで かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉》(う)というのは 表現そのものが好かんのですが どうですかね。絶対を言っていて それに《近づく》というのがおかしい。
(5) 要するには 《つきつめてゆけば 信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題》(い)とは 何だと言おうとしているか?
(6) そのような《課題》を言うのならば 親鸞なら その信仰は 理論――すなわち弥陀の悲願なり菩提心なりあるいは横超つまり即得往生なる教理――とは一歩離れているというかたちにおいて その信仰の当否や成否から自由な《度し難い愚禿なる阿呆》 この《非知》の下なる実存とその動態であるのではないか?
吉本説の擁護なり第三者の視点なりのご批判をお待ちします。