親鸞
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
法然についての親鸞の思いを 直筆ではありませんが 歎異抄から引きます。
▼ (歎異抄 2) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/tanni/tanni-02.htm
(あ) ・・・念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。
・・・
(い) 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(=師匠たる法然)のおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
(う) 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
(え) たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ わたしの見方にて解説します。
(あ)は 聖道門つまり宗教としての信仰を掲げていてもいわゆる自力の思想である行き方を 信仰としては当然ですが 棄てます。(い)で触れているように 浄土門つまり他力だという説明を採ると言っています。
その(い)の行き方は 法然直伝であり あとの(う)や(え)にもしるしているように 法然の行き方につけ加えるものも そこから削るものもないと言っています。
(う)――このくだりは のちに親鸞が採り得て示し得た変化(進展)が 顔をのぞかせているかも分かりません。
そのことを考える前に 先に(え)において法然の行き方をたたえ これを顕揚するのだと語ったことに留意することができます。
かんたんながら これで
★ 法然という心の親がいた / それだけは忘れないで
☆ いることを確認しておくことが出来たとします。
ところが親鸞は 先へもすすみます。その境地にさらになお変化を得て行きます。
たぶんそのような境地の深化の可能性は すでにたとえば上の歎異抄の説明の中にもそのキッカケが見出されます。
すなわち (い)で《ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし》という命題をかかげつつも その基本路線のもとにもなお自由度または伸び代があった。それが (え)に明らかだと考えられます。
▼ (え) 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
☆ これについては 消極的に見るなら 念仏としての浄土門・易行道は 信心であるのだから 《考える》問題ではないということを確認しているだけだとも見られます。
積極的に捉えるなら そのように《思考に非ず》なる道を一筋にあゆむ――つまりは アミターバ・ブッダの誓願にしてもあるいはその義にしても そんな思考における理念や観念は一向にかまうものではない――と言い放ったかにも見られます。
このような親鸞における自由度ないし伸び代は 例の悪人正機の説をめぐっても発揮されているのではないか。
つまり その説の中身をうんぬんするというのではなく そうではなくすでに 悪人と善人との比較をつうじて信心のありようを《考える》ことを打っちゃってしまうような道へと 念仏・浄土門・易行道についてさらに問い求めていく姿があると見られるからです。
つまり 善悪の彼岸です。《非思考の庭》と言うべき動態なる信仰の座です。
これを 吉本隆明は 《非知》という言い方で表わしています。(ただし この非知が 不可知とどう違うかや 非思考ないし非経験とどう同じであるかについては 触れていない〔と思う〕)。
わたしは 親鸞の思惟の軌跡を時系列で追うことはしていませんので ただ文章を引用するだけですが 次のような知恵の境地に到ったことはマチガイないわけです。
▼(親鸞:義なきを義とす) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(お)(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。
(か)(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。
(き)(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。
(く)(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 《不可称・不可説・不可思議》は ナゾの何ものかのことを言うには それでよいでしょうが アミターバ・ブッダを規定(想定)する定義としては むしろ《非知 ないし非経験の場 もしくは非思考の庭》と表現したほうがよいと考えます。
★ 法然の教えが子供だましなら、なぜ親鸞はそれを受け入れられたのか
☆ 法然の行き方に削りもつけ加えもせずに その一筋をさらに問い求めて行った結果たどりついた地点なのです。つまりあるいは 浮気をせすに内部で深められて行き 人間の心的現象がこまかく腑分けされて行ったのだと思われます。
たとえば 《はからひなきを自然と言ふ》というとき 《ハカラヒを無くそうとする》のは ハカラヒなわけです。そういった内面の襞を分け入っておのが心を見つけ出したのでしょう。
★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(け) 定め無きを無義といい
言葉無きをもって無義の義という
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ ですから――ここからは 哲学思想のぶつかり合いです――
(こ) 《定め無き》は 定めが無いという規定をすでにおこなっています。《無義》は じつは 《義》があるかも知れないのです。(この点 親鸞の表現およびそれを踏襲したわたしの説明に不備があったようですが)。
(さ) つまり《定め無き》は 《いっさい何も規定しないということ》の《義ないし意味ないし思惟ないし自力ないし不自然》があるのです。
(し) 《言葉無き》も同じくです。そこに意味ないし思惟を見い出していることになります。ハカラヒをおこなっています。
★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(す) 無義の義とは祈りの心
(せ) 仏の慈悲が人の慈悲になるのでもない、人の慈悲が仏の慈悲になるのでもない
(そ) ただその中に居て知る誠
(た) 言葉無き誠を知るは信心のはじまり
(ち) 祈られし事と祈る事のはじまり
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ ですから――哲学思想のぶつかり合いつまり 心の対話にあっては 遠慮せずに自由にどうぞではなく 遠慮をしてはいけないのです(遠慮したぶん 心は退化します)――
(つ) 《祈り》は わたしはここにいますと言っています。むしろその前後に聖なるアマエにおいてうんと《おねだり》をすればよいのです。
(て) 聖なるアマエにおいて もし《遠慮》をするなら それは今度は その相手をその遠慮のぶんだけ見くびっていることになります。おまえなんか 神と言ったって あんまし有名ではないし 実績がなく頼りない神なんだよなと語ったことになります。
(と) つまりは 神を評価しうる存在だと自己を見なしたことになります。そんな《立派な》存在が 見下したところの神にむかって どうして祈ったりするのか?
(な) 《慈悲》――(せ)――は それとしてひとつの主題をかかげて問い求めなければならないでしょう。
○ わたしの側の参考資料:
【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html
(に) 《まこと(真‐事 / 真‐言 / 誠)》――(そ)(た)――は 《主観真実》のことです。そして確かに別様に《普遍真理》をも意味し得ます。
○ 真理と事実と真実 〜〜〜〜〜〜
普遍真理( X )――非経験の場
世界事実( Y )――経験世界・経験事象
主観真実( Z ) 対 真理――《 X - Z / 信じる》
〃 対 事実――《 Y - Z / 考える・感じる》
わたし( i )の世界観: 《 X - Y - Zi 》
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(ぬ) 《非経験の場 X 》をそれがナゾであると知りつつ・だから雲をつかむようなことと知りつつ心( Z )に受け容れる意志行為が 《信じる X - Z 》である。
*
○ 義無きをもって義とす
これをめぐってですが もし《非経験の場》を想定し規定するとすれば むしろやはり
○ 非経験の場 : 非義
と表現したほうがよいかとも思われます。経験世界における義と不義とを超えているという意味においてです。
ただし 親鸞のこのいまの命題は まさに非経験の場を――つまり神を もしくは アミターバ・ブッダを――見つけたかに感じて受け容れるときのその過程そのものをよく物語っている。こう捉えられるのではないでしょうか。
具体的には 世の中で 義なる人たちが不遇で逆境に甘んじていることとか 同じことですがこれ以上の理不尽なことはないといった不条理なことがまかりとおっているとか これらの事態にあまんじなければならないときに その相手を演じている当事者たちをも 義と不義とを超えた非経験の場からの目が イノチある人間存在としては あたたかく見守っているんだなと知る。――つまり 義無きをもって義とすとさとった。