caguirofie

哲学いろいろ

《はからひ無き》

ねむりねこ 2015/03/24 14:00

こんにちはです。
回答がなかなかつかないようなので、
ちょっとお喋りします。


 ○ 【Q:自力聖道門と他力易行道とは 次元が違う。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8941260.html


☆ つまり そう言っているも同然です。なぜなら 《自己が修証される》のは 《万法が向こうからすすんでやって来るゆえに》だと言っているからです。《おのづから》であり 《行者のはからひにあらず》と言い切っているからです。
◇《行者のはからひ》は未だ《分別・vikalpa》の世界だから駄目なんですよ。

西田流に言えば、「主客未分の純粋経験」が大切なんでしょう。
現象を、私と私じゃないものといったふうに二分化したりしたら、その時点で、世界の姿が歪んでしまう、変質してしまう。

bragelone

 《はからひ無き》という表現では まだダメです。最後の詰めをおろそかにしています。
 しかも そこにありうる推論をつけ添えるなら 《分別・vikalpa》の世界を超えていることが出来る。という話をします。


 かんたんです。まづダメだというのは 《はからひ無き》を期すなら そこで《はからひを無くそうというはからひ》が入ります。いやいや そのハカラヒは ただちに否定しますと言っても 同じく別のハカラヒがおこなわれることになります。ゆえにです。


 ただしところが この限りなくつづくハカラヒから自由になること。そのことを 少なくとも理念としてでもすでに織り込み済みだと見ることも出来るのではないか。おのづから・かつ必然的に 《分別を超える》という姿勢に行き着きます。超える超えないからも自由たらんとする姿勢です。その地点で 何がしかのさとりを得ているでしょうね。エポケーしたかのようであり しかもそういうハカラヒについては もうこだわらないし構わない。


 おそらくそうすると 親鸞のばあいには ただただいま・ここなるわたしとわたしたちの生活とその相互関係である社会 ここに生活の基礎を置くかたちになると考えられます。ふつうに仕事をしてともに生きて行くという姿勢です。


 道元はどうなんでしょう。そのように生活世界を基礎としたと見られるとまづ考えます。それ以外に想像し得ないでしょうから。そして 道元の場合には なおまだ《修行》があるかにも見られます。つまり 只管打坐だと言うなら 出家としての《生活姿勢》を打ち出すことになるのかも知れません。ほぼ同じでしょうが 寺をなお道元は持っている。親鸞も持っていましたが やがて自然法爾の内に消えて行ったものと考えられます。だから 蓮如がその寺なり組織を《復興》させた。ことになっている。

 
 ちなみにカルワンの場合には 神のおぼえめでたくあらんとして――M.ヱーバーの仮説にしたがうならば――職業に従事しそこであたかも救いの証しだというかのような《利益》を上げるまでにいそしむ。そういう生活および仕事への姿勢ですね。親鸞は そういう発想や意図や要するにハカラヒはなくて 生活する者となる。やがて神は(アミターバ・ブッダは) 信仰は見えないところではたらいているでしょうが いっさいオモテに出ることはなくなる。はずです。それが 親鸞の生きる道だと考えます。


 ◇ 「主客未分の純粋経験
 ☆ という思惟なるハカラヒすら 要らないという境地に入って行ったものと推測します。《はからひ無き》という表現だけではまだ足りないのは足りないのですが それと同時に このような推論の延長線がすでに織り込み済みであるとも考えるものです。


 あとに続く議論についてもだいたい触れ得たのではないかと考えますが。


それに、何故、我々は○○をすることによって《悟り》に達することができるかといえば、
自身に清浄能力―――これは神や聖霊、もしくはその作用、ハタラキと呼んでもいいでしょう―――があるから。

最終的に、縁起の理法などによってこれが否定されたとしても、
一時的であろうがあるまいが、
この存在を認めざるを得ない。
これを否定しちゃったら、自力道は成立しないし、そもそも仏教は仏教足りえない。


もちろん、《自性清浄心》や《仏性》・《如来蔵》―――神や聖霊みたいなもの―――を前面に立てることもできますけれどね。


いずれにせよ、最終的には同じところに落ち着くと思いますよ。


☆決して《自力》ではなく《絶対他力》なのです。そう言ってよいでしょう。
◇最終的には、自と他の区別が消失するので、どっちがどっちでも構わない、と思う。
他を自に含ませるか、自を他に包含させるかは、視点の相違であり、また同時に未だvikalpa世界の議論・戯論に過ぎない、
となるのでしょうね。


哲学的には、自と他の区別は重要なのかも知れないけれど・・・。


で、私は、《自》、迷いの世界から、あちらの世界、蓮の世界を垣間見ようとする。
私の好きな《唯識》なんてまさにこの世界観ですし(ポリポリ)。

bragelone

 ねこさん。ねこさんは 自性清浄心を過大に捉えているのではありませんか?


 ◇ 哲学的には、自と他の区別は重要なのかも知れないけれど・・・。
 ☆ ここはむしろ神学〔を扱う哲学〕にとって 厳密さが要求されるかも知れないと思い直しました。


 ◇ で、私は、《自》、迷いの世界から、あちらの世界、蓮の世界を垣間見ようとする。
 ☆ もしこの命題に対して 次のようにツッコミを入れられたら どう答えますか?
 ■ (道元:現成公案) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   自己を運びて万法を修証するを迷とす。

   万法進みて自己を修証するは悟りなり。
   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ねむりねこ 2015/03/25 15:39

 自己を運びて万法を修証するを迷とす。→ 往(相) ・・・ 加
 万法進みて自己を修証するは悟りなり。→ 還(相) ・・・ 持

bragelone

▲(ヰキぺ:加持) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
(あ) 加持(かじ)とは、仏教用語の1つ。元はサンスクリット語のadhisthana(アディシュターナ)の訳語で、他にも所持・護念などと訳される場合もある。


(い) 本来の意味は 仏あるいは菩薩が不可思議な力によって衆生(人々)を守るという鎮加護持(ちんかごじ)・神変加持(じんべんかじ)を指す。
仏の大悲の力が衆生に加えられ、一方衆生の信心が仏に伝わることでその効果を発揮するとされる。


(う) 密教においては、仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」、衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し、双方が相応一致することで仏と衆生の持つそれぞれの三密が入り混じて他を己におさめ持ち、死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させることから、これを「三密加持」と称する。

 (う)の密教の見方とは違うということでしょうか?
 ▲ 仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」、衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈
 ☆ つまり これだと 加と持とが ぎゃくなように捉えられます。(い)の《本来の意味》とも違いますね。わざとでしょうか?
 ▲ 仏の大悲の力が衆生に加えられ、一方衆生の信心が仏に伝わることでその効果を発揮する
 ☆ やはり向きがそれぞれ逆であるように見られますから。


 厳密なことを言えば違うのでしょうけれど、
 道元親鸞空海の対応で言えば、図式的にこうなるんだろう。

bragelone

 親鸞は そうは成らないと思いますよ。
 往相・還相で 説明しようと思えばできるのでしょうけれど 往相の自力は ハカラヒとして基本的にしりぞけていると思われますから。
 と言いますか 往きも還りも無いというところまで 最終的には到ったものと考えるのですが。

 ですが、これはまだ《分別・vikalpa》の世界ですわね〜。
 非思考・非経験の場から思考・経験の場での議論であり、あっちからこっちに帰ってきた、経験事象の話になっている。

bragelone

いや そのとおりです。まったくそのとおりです。ですから 親鸞はそこから離れたはずです。

 いや、まぁ〜、そうじゃないと、言葉で語れないという事情があるにしろ、そうだということになる。
 無分別・般若の立場から語っていはいない。
 そもそも、我々が無分別になれるかどうかすら疑わしい。それほど、分別は執拗かつ我々の生と深く関係している。
 脳を有さない単細胞生物にすら、自と他の区別はあるんですから。

bragelone

 ここで ツッコミが入るでしょうね。 
 つまり ねこさんは
 ◇ そもそも、我々が無分別になれるかどうかすら疑わしい。
 ☆ というふうに《成る》という発想でなおまだ語っている。ように見える。から。


 ◇ それほど、分別は執拗かつ我々の生と深く関係している。
 ☆ という現実はすべて《自然法爾》として親鸞なら受け容れるわけです。無条件に受け容れます。無明・煩悩があるかどうかも構いません。あるでしょう とうぜん。それでも 構いません。天然に成れるかどうか。成っていないと知りつつ その《知や分別》には頼らない。あるいは頼らないぞといった思いも持たない。うんぬん。

 認識論的に言ってもそうでしょう。
 物自体に向かうことはできても、我々は物自体になることはできないし、それに達することもできない。
 言葉の上では《超越する》ということで片付けられるのでしょうが、これは、少なくともこっちの世界に属しているかぎり、できない。

bragelone

 ですから 自力で無分別になるのではないわけです。
 言いかえると 自力で無分別になろうとしてもよいし そうしなくてもよい。あるいは 分別盛りに〔自力で〕なろうとしてもよいし 成ってもよい。いづれにしても すべては 自然法爾であり ナゾのほうに任せている。すべてをゆだねている。


 ゆだねるというハカラヒは どうするんだ? あっても無くてもよい。うんぬん。

☆☆☆☆☆☆
 ここで少し話が変わります。
 渡辺照宏の「鎌倉新仏教は、空海の思想の焼き直しで、セクト化(部門切り分け)だ」という批判は、的を射ていると思う。


 三密対応で言えば
  身密 ・・・ 道元
  口密 ・・・ 法然日蓮
  意密 ・・・ 道元親鸞
 このような対応関係になるのでしょう。

bragelone

 親鸞は 違うでしょうね。身口意の三業はすべて ハカラヒですから。
 もし言うとするなら 身口意の三密の全部を親鸞なら おさめてしまうでしょうね。何かひとつのことにかかずらわることから自由ですから。

 人間を三密(三業)に還元する、もしくは、象徴化することの妥当性についての議論は必要なのでしょうが、
 鎌倉新仏教と呼ばれるものは人間を総体的、総合的には捉えていない。
 人間はこれらの活動すべてを有しており、また、そのようなものとして捉えるべきである。

bragelone

 《非知》にたどりついた親鸞としてなら 分野とか独特の手法とかいくつかの方法からえらぶということはあり得ないでしょう。《非思考》なのですから 取捨選択などはしないわけです。どうしてもというならば あれもこれもでしょう。全部をえらぶでしょう。

 ここがいわゆる鎌倉新仏教とそれ以前の仏教との大きな違いにして、おそらく、最大の違い。
 進歩ということもできるし、退化ということもできる。
 深化ともいえれば、部門化、細分化、専門化とも言える。


 と同時に、そこで描かれる人間(像)は《人間》ではなくなる(ポリポリ)。


 鎌倉祖師の中で空海に一番似ているのは道元だとは言われますが、
 道元が似ているのは山岳修行者、出家・隠遁主義者としての空海の一つの顔に過ぎない。
 これを仮に《高野山志向》と呼ぶとして、空海には京都の東寺に代表される世俗的なもう一つの顔がある。こっちは《弘法さん志向》を呼ぶとして、この二つの顔がある。

bragelone

 親鸞は 最終的には京都という街の中にいましたから 《高野山志向》は 捨てているでしょうね。(もちろん それを志向するのも自由だという前提で)。
 《弘法さん志向》も 無くす方向でいたでしょうね。真宗の寺はほんとうに廃れて行ったのですから。宗教としての組織もいとなみも要らないわけです。万人が司祭であるとすら言わない。みなそれぞれがふつうの生活者であるという大前提のみでしょうね あるのは。《生活者志向》が 親鸞です。つまり《人間》のみです。

 道元が生活活動に基盤を置いているといっても、あれは出家修行者・隠遁者の生活活動であって、かなり歪んだ「人間の生活活動」に過ぎない。
 所詮、「犀の角」に過ぎない。
 山にばっかりこもっていると、狐や狸になってしまう(笑)。
 だから、
 文学的修辞とたぶんの皮肉をこめて、
 「道元は人間を見ていない」と思う。
 万法と言っても、狐や狸じゃ〜、しょうがない(笑)。


☆☆☆☆☆☆
 ☆ ここはむしろ神学〔を扱う哲学〕にとって 厳密さが要求されるかも知れないと思い直しました。
 ◇ この区別は明確にして論じないと駄目だと思います。

ねむりねこ 2015/03/25 15:51

 ちょっと付け足し。


 梅原猛が『空海の思想』かなんかで、
 「密教の仏は良く笑う」
 みたいなことを書いていたと思いますが、これはすごくいい言葉だと思いますよ。


 鎌倉新仏教の人間は、嘆き悲しむことは出来ても、笑うことは出来ない。
 実存主義の人間は絶望は出来るけれど、笑ったり、大笑いしたり出来ない。
 あとは、ルサンチマンすることしかできない。

bragelone

 加賀一揆等々を起こした親鸞の同朋たちは 宗教はどうでもよいと見たからには 生活ないし社会を自分たちの手で共同自治しようと思ったわけです。
 信長に負けるまで 持ちこたえました。

 
 というその意味は 世の中の情況や情勢からして まだ《笑う》時代と社会ではなかった。そういう問題だと思います。
 もっとも いま現代にして 親鸞の同朋は 出て来ない。宗門とその組織の中に埋もれている。ということは 民主制なる世の中に成っても まだ笑いは成就しないのか?


 どうでしょうね。でも 同朋連は この世の人生をたのしんでいますよ。あまり笑ったりしないとすれば 一揆というような政治革命〔のみ〕によっては 人間の自由な実存を まだ実現することはむつかしい。と思っているでしょうね。だから 密教のほうで 笑う仏さんがたくさん出たとしても その路線にもなびいては行かないでしょうね。そういう《笑い》は 政治ないし自分たちの共同自治にかんしてすらも 関心をあまり持たない。世間を笑い飛ばそうということであるかも知れないけれど それではほとんど《宗教〔のオシエ〕》の優越性や高尚性に拠って 自分たちの矜持を保っているという行き方になると思っているでしょうね。


 この町あの村のこの人たちあの人たちといった姿が 同朋の連中にはあたまをよぎって行っていると思われます いつもつねに。そういう地べたの生活を飛び越しての笑いではないかという物言いを 持つでしょうね。


 ルサンチマンを勧めるわけでは毛頭ありませんが 密教の笑いは 人びとのあいだにくすぶるルサンチマンを見なさすぎるのではありませんか? 飛び越えてしまいすぎではありませんか? 《密》と言わねばならないとすれば・そういう看板をまだ下ろさないとするなら そういう超然内閣制を敷いているかに見えますね。


 もう、この時点で、かなり歪んだ人間像になってしまっている。


 日蓮なんて、まさに、この《ルサンチマン》の権化であり、飽くなき《権力志向》の人。
 その意味で、日蓮ニーチェという人と似ているのかもしれない。
 思想じゃないですよ、「人間性、人となりの部分が似ている」の意味です。

ねむりねこ 2015/03/25 18:04

 私の「加持」の捉え方が、空海のそれとは違うのかもしれません。


 『即身成仏義』には
 「仏日の影、衆生の心水に現ずるを《加》といい、行者の心水よく仏日を感じるを《持》という」
 とありますので。


 ですが、修法的に言えば、
 こちらから仏側への働きかけ仏をこちらに招くことが《加》になり、それを頂き保持するのが《持》になるんでしょう。
 密教だから、こっちからあっちへ行くことはない。
 そして、
 あくまで、こっち側が中心で、宇宙の中心は行者であり、一人ひとりの人間ということになる。


 モーセにしても、神さまがモーセのところにやって来るのであって、モーセが神さまのところに行くわけではない。


 空間的な概念や感覚は意味を持たないんだろうけれども、一応、そういう構図ですよね。
 神秘体験というのは、たぶん、そういうものなんだろう、と思います。。

bragelone

 細かくなりますが 一点だけ違いがあると言えばあると思いますね。
 ◇ 修法的に言えば、 / こちらから仏側への働きかけ仏をこちらに招くことが《加》になり、それを頂き保持するのが《持》になるんでしょう。
 ☆ 《持》のほうは おおかたの賛成を得られるものと思います。一般的だと思います。


 《加》のほうで微妙な違いがあると考えます。それは 《招く》という発想です。
 これは あきらかに《自力》です。それでよいという立ち場なのでしょうが 道元とも異なるとは思います。
 《こちらから仏側への働きかけ》のこの はたらき掛けは むしろ思考や修行としての自力の側面(経験行為)に限ると言っておけば済むので 問題はないでしょう。
 けれども 《仏をこちらに招く》というのは あまり見かけない発想だと思われます。


 つまり端的に物言いをつけるなら それによって招かれ招かれ得るブッダターなら それはけっきょく人間の頭(能力)の中におさまるような自性清浄心である。と考えられるからです。たしかにわが心にやどるとは言いますが あっちが勝手にやどるのであって こっちがその座(庭)を用意したものではないと思うからです。



 ◇ モーセにしても、神さまがモーセのところにやって来るのであって、モーセが神さまのところに行くわけではない。
 ☆ ですね。
 たとえばメリバの水の事件で 神はモーセが自分勝手に水を湧き出させたのをなじっています。咎めています。

 
 つまりもっとも これは モーセがあたかもほぼ自力で 水が欲しかったときに水を湧き出させたわけで そういう経験事象にかんしては 自力もあり得るということを示してはいるようですが。
 【Q:メリバの水】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7426798.html


 とは言うものの ここに《律法》を持ち出すことはありませんし ましてや新たな規範をつくろうとするものでもありません。
 たぶん 自性清浄心が 《めぐみ》であると受け取るか否かで分かれ目があると言えばある。ということではないかと考えるのですが。


 ☆ 密教の笑いは 人びとのあいだにくすぶるルサンチマンを見なさすぎるのではありませんか? 
 ◇ ルサンチマンを笑い飛ばす。ですが、これを否定はしない。質的に変換しろ、という。
 ここでのキーワードは、《小我》と《大我》になるんでしょうね。
 同じ生命の根源から発しているけれど、《小我》だからルサンチマンになる、みたいなイメージでしょうか。


 と同時に、怒りも否定しない。
 お不動さんに代表されるように、密教の仏はよく怒りもする。
 否定されるのは、怒りではなく、《小我》の方。

bragelone

 なるほど。これは 必ずしも《顕教》ではない。半々くらいでしょうかね。
 ◇ 《小我》と《大我》になるんでしょうね。 / 同じ生命の根源から発しているけれど
 ☆ ううーん。これは 《秘すれば花》ではないはずなので 一刻も早く顕わにすべきでしょうね。
 空海は 最澄に いぢわるをして密教を秘してしまいましたね。