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哲学いろいろ

感性は 理性よりも えらい

感性は 理性よりもえらい。
まづ 定義から入ります。

 序
 《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。

 ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。
 
 ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。

  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性

 2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。

 3. 感性: 身の五感が知覚すること。感情。情感。

 4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。

 5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。
 5−1. 事実認識の内容が 概念となる。一般に言葉を用いておこなう。

 5−2. そしてさらに概念を用いての思考の際に しばしばその意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していくことが多い。

 5−3. そのときの概念は すでに意味が抽象的な状態になり認識事実から切り離された《観念》となっている。


 6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によってその中身を取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。《8. 意志》へ。


 7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。

 7−1. あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。
 ここまでが 知解という作業である。

 8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。

 8−1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。

 8−2. ここで善か悪かにかかわらず・という意味は たとえ悪だと思うことをえらぶという場合にも 一般に人は それが良かれと思ってのことである。あるいは 良いわけないと分かっていても そうするよりほかに仕方がないと思ってのことである。

 8−3. あるいはさらに そうするよりほかに方法がないわけがなくても 悪をえらぶ場合がある。これらは それでも言ってみれば 意志による判断行為として 愛である。それでもおのれを活かし相手をも活かそうとする判断である。

 8−4. 悪に向き合い 悪とつき合うにまで到る意志決定は その判断の源泉のようなチカラとして 愛である。たとえ相手について 消えてなくなれと思ったとしても 何ものかに身も心もゆだねるような判断として愛である。のではないか?

 9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。

 9−1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。

 9−2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。

 9−3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。

 9−4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。

 10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。

 11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。

 11−1. 三つの行為能力のうち意志行為が その中軸である。なぜならその思惟や行動としての自己表現について 最終の判断をくだすものだからであり さらには その判断行為にはすでに同時に その表現内容についての答責性が伴なわれている。この説明責任をになうのも 意志である。

 11−2. 意志は 一般に主観すなわちおのれにとっての好き嫌いや良し悪しで判断するのであるが いづれをえらぶにしても 意志はおのれの・つまりは《わたし》なる存在の良かれという方向に向かっているものと思われる。悪しかれと思ったほうをえらぶにしても それをおそらく人間としての自分の判断だけとして捉えたわけではないと思われる。

 11−3. どういうことか? 意志がたとえおのれの存在をみづからが抹殺するというような判断をくだしたときにも それはすでにおのれの善悪判断を超えたところに進み出て 何ものかに全身とその心をゆだねた結果であると考えられる。これは 意志行為のうちの 最終走者としての愛のチカラでありそのハタラキである。と考えられる。
 
 11−4. これは――《愛》を言うことは―― ただの認識である。に過ぎない。そしてしかも その愛を見ない・捉えないなら さらにみじめな事態になると思われる。この世は 善と悪とがたたかっているのだという世界観が優勢となる。悪は 死の勢力である。

  ・・・・・


     *

 さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。


 12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。

 13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。

 14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。

 15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。

 16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。

 17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。

 18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。

 19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。
 ○ (感性派の自己弁明) 〜〜〜
 理性によるものごとの理解・習熟の暁に 感性への昇華が得られるというよりは そういうよりは 感性はすでに理性によるものごとの問い求めの初めにそれに先行して 答えを出している。

 この感性のハタラキについて 理性も意志も耳を澄まして見逃さないようにしなければならない。

 そしてたぶん 理性がその自己の試練の果てに感性にまで昇華するというのは おそらく《境地》の問題であって そのときには《理性と感性とが それとして 一体となっている状態》であるのだろう。

 おそらく《身と心》は自然本性として初めから一体であるのであって その一体なるひとりの存在である《わたし》として 感性も理性もそれぞれおのがハタラキをもって《わたし》の自己表現に貢献し合うことが肝心である。
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