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哲学いろいろ

H.ゼードルマイア

 その著
 『中心の喪失――危機に立つ近代芸術――』
  石川公一・阿部公正共訳 1965 美術出版社
 ( Hans SEDLMAYR: Verlust der Mitte. Die bildende Kunst des 19. und 20. Jahrhunderts als Symptom und Symbol der Zeit 1948 Salzburg )

 ◆ (『中心の喪失』結論) 〜〜〜〜〜〜
       ・・・新しきもの(神の国)は《目に見えて来るものに非ず》。
          (ルカ伝・第一七章第二〇節)

 唯一の処方は 新しい状態の内部において永遠の人間像を確立すること もう一度確立すること これである。
 しかしこの永遠の像は 人間自身で考え出すことのできぬものである。さもなければ われわれはもう一度哲学者の神のもとに立つことになるだろう。
 人間的なるものは 人間が――潜在的に――神の似姿であり 一つの――たとえ乱れているにせよ――世界秩序に組み入れられているものだ という信念なくしては確立しえない。
 これがわれわれの定点である。

 一般的にいって梃子(てこ)は外にかけるべきではない。ただわれわれ自身にかけるべきである。
 現代の全診断はこれをひとが自分自身に投げ返し 自己を認識し 自己を変えるために用いる場合にかぎり効き目がある。
 これによって一般の状態の変更が実現できるかどうかは疑問である。しかし
 
    動機というものを行為におこう 出発にではなく
       (ル-ドヰ゛ヒ・ワ゛ン・ベートーヱ゛ン)。

 個々の人間が自分自身を癒やしていって全体の治癒に貢献しうるという信念は捨てるわけにはいかない。なぜなら苦悩の内には一つの連帯性があるからである。全体の疾患もまづ《個々の細胞の衰退》から始まったのである。・・・
    (pp.313−314)
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 ☆ これが処方箋であるらしい。展望を伴なうと言っていい。
 その具体的なきっかけとしての情況は 次のように――きわめて総括的にだが――分析しているようである。
 ◆ (同上) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 すなわち 一九 及び二〇世紀において最も深刻に悩んだのはとりわけ芸術家 その中でも怖ろしい幻像によって人間及びその世界の転落を可視的なものにすることを仕事としたものこそ その最たるものであったということである。

 一九世紀には 全く新しい型の悩める芸術家 すなわち孤独で 昏迷し 絶望し 狂気の淵にたたずむ芸術家が現われる。これはそれ以前にはせいぜい単独者としてしか存在しなかったものである。一九世紀の芸術家 偉大で深刻な精神の持ち主は しばしば犠牲に供せられたもの 自己を犠牲に捧げるものといった特性をもっている。

 ヘルダーリン ゴヤ フリードリヒ ルンゲ クライストから ドーミエ シュティフター ニーチェ(かれは芸術家でもあった) ドストエフスキーを通ってワ゛ン・ゴッホ ストリンドベリ(《人間は哀れだ!》というかれの叫び) トラークルにいたる一連の作家には 時代の下に悩んでいる苦悩の一つの偉大な連帯性がみとめられる。これらの芸術家は 神が遠く隔たったため あるいは《死んだ》ため そしてまた人間が低下させられたために 苦しみを味わったのである。

 そしてまた最も多くのヨーロッパはこの状態の下で苦しんでいる。それゆえに ここにはまだ精神的希望があるといえよう(外面的にはまだきわめてよくないかもしれないが)。
   (pp.314−315)
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☆ 質問者は この結論部分を真っ先に読んで それだけにおいて この質問を挙げています。つまりこれから出発進行という状態です。

 なお主題は おそらく《神の似像(にすがた)としての人間》をどう規定するかにあると思われます。それについては 質問者はすでに仮説を持っています。
 ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式)
  【Q:われらが審美眼は 劣化したか】 そのNo.10お礼欄
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html

 ○ ロゴスもしくはインスピレーションの図解:そのNo.104お礼欄

 ○ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理( Hidocchi=bragelonne theorem ):No.107補足欄