caguirofie

哲学いろいろ

なぜ神はイエスをこの世に送ったのか

Q:キリスト教に関する質問です。

神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った、それほど人類を愛していた、とのことですが、その意図がわかりません。

なぜ人々が罪深いからといって誰かが犠牲にならなければいけないのでしょうか?

人類を創ったのは神です。親が子供たちの過ちの責任を、長男もしくは一番かわいいと思っている子供に負わせているかのように思えます。(キリスト教によると、人類は神の子ですよね?イエスの兄弟ですか?)
俺たちが悪いことをしたのに、何もしてない兄さんが警察に名乗り出てくれたよ。罪悪感感じるけど俺たちは罰を受けなかったし兄さんに感謝感謝、って感じですか?しかもそれを親(=神)がやらせたんですよね?

そもそも誰かを身代わりにしたら許される、その身代わりになってくれた人を敬う、という発想がよくわかりません。

なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の根本なんだろう?とものすごく疑問に思っています。

A-1

すべては 表現の問題であると考えてください。

たとえば 神という言葉を知る前にも わたしたちは その存在(もしくは 非存在)を あたかも 心の内で知っていたというかのように振る舞っていたはづなのです。

たとえば この世がすべて自分の思うようにいくとは限らないと知るとき その限界を超えたところは 神(もしくは ほかの人びとには 無神)の領域です。

あるいは わたしたちは それほど愚かではありません。抱いた思いが まちがったものであるなら それが通用したり実現したりするほうが おかしいと分かります。

また同じそのとき そんな考えは通用するほうがおかしいと大方の人が分かっているのに いや 分からないという一部の人たちがいることがあります。というよりも はっきり答えないで 最後まで話し合いをはぐらかして 分からないを通し 自分のおかしな思いを通す場合が この世ではあります。このような説得の限界 これについて見ても 有限で相対の世界を生きるわたしたち人間と それを超えた領域とがあると ふつうにわたしたちは捉えます。

長くなるので もはや端折りますが そこで このもともと生来持っていたわたしたちの神の領域を信じ切った・信じ切って生きた人も 現われます。たとえば ナザレのイエスです。

〔無神あるいは空だが 大きく言ってそのような神の領域はあるという人たちは 別なのですが〕 そんなことを信じるなどというのは ちゃんちゃらおかしいという人びとも 中には います。この何十年かの人生を面白おかしく生きるだけだと言います。あるいは どんな手段を用いようが 自分の思いを通そうという人がいて 勝てばいい・勝てばそれが神の領域からの祝福だと強弁する場合が見られます。

要するに 疑いの知性です。とことん疑います。教養を身につけ 社会的な地位も得て 風を切って生きているが 人を・あるいは人の言う神を 信頼することはないし信じることがない知性です。

この疑いの知性から イエスは 疑われました。おまえだって おれと同じようにこの世で楽しく生きていきたいのだろう? むしろそのために 神を信じているのだろう? その他その他ですが このときイエスは この知性たちに とことん付き合って行ったのでした。

いきさつは ともあれ 死の淵まで付き合い切りました。かれら知性たちは 死の地点までは行かなかった。来なかった。

この――むろん 別様の解釈もあり さまざまな要素も添えなければならないでしょうが――イエスの人生が 神に関係があると受け取られて 神の物語として表現されました。(むろん ユダヤ民族の旧約の世界からのつながりにも基づいているわけですが)。

わたしたちの心の中の 神の領域・その力・そのはたらきと イエスの生きたすがたとが あたかも・あるいは どういうわけか つながって さまざまな人たちから 表現を得たことになります。

中では おっしゃるように 一番上の兄が われわれのだらしなさの積み重ねを すべて背負って一気に根本的に払ってくれたという物語となったわけです。三位一体という観想が得られたりもしています。

途中ですが このあたりで。

Q-2

新鮮な切り口で大変参考になりました。当たり前ですが当時はキリスト教がなかったのですよね。

このように当時を生きた人々の様子を想像してみると、どうしてイエスが崇められ、

キリスト教という宗教にまでなって多くの人々に支持されたのかがわかるような気がします。

聖書からの知識のみでは、本当にそんな話で多くの人々がクリスチャンになっていくのだろうか?と思ってしまいます。

目から鱗な回答でした。どうもありがとうございます。

A-2

たとえば 誰かが死ななければ 腰を上げないという事例があります。かなしいことに事実です。

エスの死に出会って 《誰かが犠牲にならなければいけなかった》と思うほど 人びとは 自分たちが《罪深い》と思ったということです。そのような物語にして 納得しようとしました。しかも この犠牲者つまり人間イエスは 神の独り子なる神だったという表現になって現われました。われわれの長子だというわけです。

神が人間になったというのは 論証不可能なドグマです。文学的な表現であるにとどまらず 歴史事実だというわけですから わたしも《ものすごく疑問に思っています》。しかも 個人としては 信じています。

なぜ 論証不可能なことを信じるか ひとつ こういうことがあります。これ以上 犠牲を出さないことが 論理的には人類全般にわたって 実現したと思われることです。

表現の問題ですから どういう内容で言い表わすかは 一人ひとり個人の主観の問題です。

《俺たちが悪いことをしたのに、何もしてない兄さんが警察に名乗り出てくれたよ。・・・》というのが 納得しづらいといえば そうだとも わたしも思います。(警察というところは ちょっと ちがうとも思いますが)。

問題は こう表現したから 神はこうだではないということです。あれそれのように表わしたから 神はあれそれだとは なりません。すべては 神を人間の言葉でも表わして納得したいがための代理表現だということです。代理表現は それこそ 人の数だけ いや 一人の人が複数持ちうるゆえ それ以上あると考えられます。

もともと 自分たちの心の内実から出発しているものです。表現しなくてもいいし してもいいというのが 前提です。

このように考えます。

Q-3

「これ以上 犠牲を出さないことが 論理的には人類全般にわたって 実現したと思われる」

なるほど。

聖書も代理表現のひとつだとお考えなのでしょうか?ほかの全ての代理表現は、代理表現(聖書)を元にした代理表現でしょうか。

エスによって全ての罪が許されるというのはbrageloneさんも納得しづらいのでしょうか。

回答ありがとうございました。

A-3

《イエスによって全ての罪が許されるというのはbrageloneさんも納得しづらいのでしょうか。》――いえ そんなことはないです。

わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエスの出現によってだと わたし自身 思っています。

そして 《代理表現である・代理表現でしかない》というのは 《文字は殺し 霊は生かす》に基づくとお考えください。(この文句は むしろ律法の問題をあつかってはいますが)。

さらにそして ここまで・つまり表現の問題だとお伝えしたところまでは 問題ないと思っていますが そこからあとは 信仰の大問題だと思います。

言いかえると ドグマそのものだと思います。すなわちお尋ねの《なぜ神はイエスをこの世に送ったのか》ですが この問いにわたしは 実は直接にはお応えしてまいりませんでした。簡単には述べることが出来ないという理由と合わせて ドグマの枠を突き抜けるのは 難しいという理由です。

(ちなみに わたしの見解は 自分が解釈したアウグスティヌスに全部拠っていますので そのことをもお伝えしておきます)。

で どうお伝えすればよいか けっきょく今は 次のように思っているということだけをお知らせしたいと思います。尋究して行ってください。

闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。(人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが)。

いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのだと思われます。

人間としてというのは たとえば 弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 死んだということ。などです。

人間としてでなければ――つまり 神として 十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。

しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は人間の精神なのではないと知らせる必要があった。

などなどです。乗り越えていってください。