caguirofie

哲学いろいろ

#11

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅶ §32

( a )《キリストの愛の非供犠的性格を強調》することは 《〈私が望むのはあわれみであって いけにえではない〉を認めることにほかならない》という論点について。
これは――《犠牲を望むのではない》ということは―― 人間の出発点たる信仰領域の問題である。それが 先行している。自由=平等の侵犯は その基本原則に反するという想定内容そのものである。このことが 一定の経験事態(犠牲なら犠牲になるということ)に例をとって 表現されたものである。そのような表現の限りでは 《神のことば》=すなわち《純粋欠如から到来する純粋欲望》の一内容だと考えられる。
ただし表現としても このときには 信仰領域から社会経験(供犠ないし非供犠)への踏み出しにかかわってもいる。踏み出しにかかわりつつ 愛として いまのように解釈したものである。
しかるに キリストの死は 一つの経験事態である。
愛の領域までとしては――つまり踏み出そうとして いまだ出発点にとどまっている限りでの愛としては―― このイエスの死を 供犠として読むかどうか これは つきつめていけば かかわりがない。重ねて述べるなら キリストの死という経験事態をとおして 愛の原則を確認することと そしてその経験事態そのものを――経験事態の種類区分としてのように――供犠か否かを決定することとは 別である。愛の一表現としての《私は犠牲を望まない》と そこに経験事態としての キリスト=すなわち〔非〕供犠論をかかわらせるかどうかは 直接かかわりがない。
《私は犠牲を望まない》と言ったからそのキリストは 供犠の儀礼の中で死んだのではないというふうに かかわりを持たせたとしても 論証にはならない。または それをめぐる妥当性の議論が つづくのみである。その死じたいは・また その死をとりまく情況過程じたいは 経験領域での具体的なできごとなのだから。
( b )《このことばに従う者がいないところには イエスはとどまることができないうんぬん》という論点は どうか。
単純に考えて 経験領域とは 《暴力が 儀礼制度上のあらゆる構造の〈主体〉である》という限りでは 《このことば(前述の 神のことば)に従う者は 誰もいない》のである。また じっさい 初めの想定でも そうである。少なくとも 《従っている》かどうかが 人間の論法では わからないし 決められない。従って このとき 経験行為そのものの問題として《イエスは この地上に とどまるかどうか》 これも いま 信仰の基本原則にかかわりを持たない。人間イエスは 一般に とどまてっているし もし 純粋欠如としてのキリストという場合にかんしてなら それは そうだとしたら もともと とどまっていないということだから。人間イエスは 経験存在であり とどまることができるにしろ・できないにしろ まずは地上の存在である。
いまの論点に それでは 経験合理性としての妥当性があるかどうか これは 議論が永遠につづくであろう。要するにこの論点は 信仰の原則になじまない。この論点によっても 《非供犠的な読み》を論証することは 難しい。
( c )《いかなる暴力とも無縁な者 暴力といかんらう共犯関係も持たない者》という想定 この論点はどうか。つまり イエス(経験)・キリスト(非経験)なる一個の存在としては どうか。
人間にかんする限り 思考経験による或る一人の者の排除という暴力 これは無効であるとわたしたちは言う。人間の社会的な 独立存在=関係存在性 またその意志と生の社会(人間関係)における自由=平等 こういった信仰の基本原則が その排除される者にとってはもちろん そして排除する人びとにおいても 侵されるからである。その限りで つまり暴力を無効とみるその信仰領域の部分で そのような《暴力と無縁な者》と 想定できるのかも知れない。ただし 人格全体は 一個の経験存在でもあるから そのまま経験欲望としての思考を帯びている限り 被害者であれ加害者であれ スケープゴート効果から全く免れているということは 無理だと考えられる。つまり イエス・キリストなる存在も 人間イエスの部分で どうしても社会経験上の暴力と共犯関係を持っている。
仮りに 純粋欠如(キリスト)が肉(イエス)となったのなら もう イエスとキリストとを その一個の人間にかんして 切り離すことはできない。(また 切り離さなくとも 純粋欠如=隠れたる神は すでに 有効として 想定されている)。切り離して どうにかこうにか 捉えようとすることが むしろ ある種の第三項化を用意するところもある。イエス・キリストひとりだけの特殊視につながる。だから 論証としては このような論点を根拠とすることは 難しい。というか 根拠は むしろ初めの想定のほうの内に 成り立っていると考えるべきである。
( d ) このように考えてくると 一部分を取り出して吟味しただけではあるが ジラール理論は 妥当性に賭けるところがある。または 妥当性の問題として どこまでも 議論に きりが無い。
愛の有効性を志向していることは すでに初めに省みた。そしてこの点は あらためて次の如くとらえられる。
( e )ジラール理論の全体として ある種のしかたで わたしたちの命題(愛の原則)にかかわると思われるところは 

エスはまさに 供犠のさなかに死ぬのではなくて あらゆる種類の供犠に逆らって死ぬのです。

という読みである。これなら 愛の踏み出し(表現)にかかわる応用原則として見られるかも知れない。単純なかたちではあるが 経験事態そのものの論議ではなく 経験事態(このばあい 死)を通して 愛の原則に触れて表現しようとしているから。《供犠のさなかにあって〔のように〕 しかも》といった表現に変えるとよいかも知れない。無力の有効を言おうとしているかも知れない。
この点わたしたちは もはや深く追求することはしないで――つまり ジラール理論にかんしては 上のような可能性をのみ とらえておいて―― いくらかわたしたちの読みを提案しておきたい。
要するに 歴史上のイエス・キリスト問題と イエス・キリストにかかわっての人間の基本原則また応用原則の問題 これらの二つは 微妙にちがうというのが 一つの前提として得られたと思う。歴史経験としてのイエス・キリスト問題は そのまま妥当性の領域での議論に終始せざるをえないと思われるのである。
( f )次のパウロの説明に拠りたい。

キリストは わたしたちのために のろわれた者となって わたしたちを律法(――信仰領域の基本原則を 経験思考のことばで具体的に表現したもの また規範とされうるもの 《殺すなかれ》など――)ののろいからあがない出してくださいました。――《木(十字架)に懸けられた者は実暗のろわれている》と聖書(申命記 (新聖書講解シリーズ (旧約 4)) 27:26)に書いてあるのです。
ガラテア人への手紙 3:13)

《律法(法律)》とは 純粋欠如から到来するところの・われわれ人間にとっては無条件の純粋欲望そのこと(その掟)であるが それは 信仰の基本原則〔という理論想定〕そのものとは 微妙にちがって わづかに具体的に経験行為にかんすることば=文字で書かれたものである。純粋欲望の掟(ことばそのものとしては律法)を想定することと たとえば《汝 殺すなかれ》あるいは《犠牲をつくりだすなかれ》というように 具体的な内容が想定されることとは 微妙にちがっている。
前者は 代理としてのことば(純粋欲望など)を通して ある種の認識をも介しつつだが 信仰が想定される。後者は 《殺すなかれ》という代理を通すことと その認識の目標(殺さないという経験行為の内容)をも設定することとをもって 信仰が 説明される。
後者は 経験領域への踏み出しにかんする愛の応用原則という理論想定そのものではない。または それ以上のもの(殺すなかれという経験思考の内容)をも 含んでいる。ここで 《文字は殺しますが 霊は生かします》(パウロ コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:6)というようにである。《文字》が 考えるとその表現ないし観念のことであり 《霊》はむろん 純粋欠如またそれの信仰としての受容を言う。
また ここでこそ 《律法ののろい》と表現されるようになったのだと思われる。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》の如く経験内容でそれを規定するところから――あたかも供犠の形態のように 禁止と侵犯〔とその赦し〕を規定するところから―― 《律法ののろい》というような表現も出たと考えられる。
( g )従って 一つの結論としては まず《木に懸けられた者は皆のろわれている》というからには その十字架上の死も じっさい 経験領域では 禁止と侵犯・排除と第三項化の 供犠に 少なくとも取り巻かれるようにして かかわっている。《なかれ》とその《なかれ》の侵犯と またその赦しとしての社会関係上の広く供犠にかかわっており その限りでは イエスは一個の犠牲であると見られることを 免れていない。
《わたしたちのためにのろわれた者となっ》たのである。律法規定とそれのある種の宗教的な儀礼化の中に それとして 入っている。なおかつ そうして この《律法ののろいから わたしたちを あがない出した》と言う。そのため そういう供犠にかかわる一手段(犠牲となること)を――経験行為の上で――採ったということである。
経験上の情況経過じたいは 供犠の構制に大いにかかわっているのである。それをとおして たとえばパウロという一個の人間が 愛の原則の問題としてとらえ 一定の解釈・説明をあたえた。無力の有効が そこに とらえられると言ったのである。
想定としては 信仰領域〔の持続という実践〕で すでにあがない出されているが このことを 歴史経験としてのイエス・キリストをとおして かれに仮託して(想定としては) 述べている。
《想定としては》という但し書きは――もはや主観の問題であるが―― わたしが 信仰領域の想定によって信仰を得たのではなく パウロらのことばを聞いて 信仰領域の想定という議論をすることができるようになったからである。これは あくまで主観の問題である。議論になじまない。
( h )従って ジラールが 《イエスは もう二度と供犠が行なわれることがなくなるように願って死ぬのです》ということは 逆に言って 経験行為の妥当性の問題を超えて 愛の有効性の問題に触れて言おうとしている。また単純に わたしたちの応用原則の有効性とも
志向性のうえで  合致する。もっとも きびしく言えば 純粋欲望(無条件の条件)であるならば 単に経験欲望にかかわるような《願う》という問題ではないと 言っておくこともできる。つまり 《願う》ということのあと 純粋欲望の有効性を志向するのではなく 逆だからである。
( i )反対に 《暴力がいつまでもはばをきかせている場合には イエスはどうしても死ななければなりません》という見方は 表現上の問題を超えて 経験欲望の観点から見た捉え方である。妥当性の問題であり 結着がつかない。
《暴力のしもべとなるよりはむしろこの暴力に対して 否と言うのです》というのは 同じく 経験欲望の観点である。愛の表現としてそう言うことはありうるであろうが 今の議論の中では むしろ妥当性の領域から有効性の領域を論証しようとするかに見える。そもそもの初めから 暴力が無効であると見ていて その見方が無力の有効であると知っている人は その上になお《この暴力に対して 否と言う》必要は 基本的に ない。わざわざ言わなければならないのは また言わなければならなかったとわざわざ解釈しなければならないのは 経験欲望と純粋欲望との混同に発すると思われるのである。
混同しないときには 《愛という無力の有効ゆえ 暴力という経験的な有力に対して もう一つの有力を経験思考とその欲望によって 対置させなかった》というたぐいの解釈しか出て来がたいと思われる。《どうしても死ななければなりません》などと見るならば それはあたかも 供犠の暴力に対して律法道徳という一有力を対抗させて その心情に訴えようとすることになり あたかも今ひとつ別の暴力をことばで表現したかっこうである。これは 経験欲望の一観点だと思われ のろいからの自由を期しがたい。
( j )微妙であるが わたしたちの解釈としては イエスがこの地上(経験領域)で十字架上に去っていくという一手段を――それはどう見ても 供犠の第三項化の構制にはまり込んでいるのだが この経験世界では――採る必要があった それがいちばん妥当な手段であったとする見方である。
いちばん妥当というのは それ以外に見当たらないという消極的な理由による。けれども 別にわざわざ 《この暴力の世界は いやだ・あきた》と言って去ったのではなかろう。――とくにこのあたりは 初めにことわったように 妥当性の問題ではある。
( k )それでも この妥当性(パウロの解釈)を通して 信仰領域の有効性が たとえば次のように――キリストの死ののち――さらに伝えられることとなったとも 理解する。イエスの経験行為としての歴史は そのまま妥当性の問題であり その妥当性にかかわる歴史経験を 愛の応用原則にもとづいて捉えることは 信仰の基本原則とその有効性の問題である。

あなたたちは キリストがわたしたちを使ってお書きになった手紙として 公にされています。墨ではなく〈生ける神〉の霊によって 石の板ではなく血の通った心の板に 書き付けられた手紙です。
パウロコリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:3)

信仰領域として読むときには ことばはすべて代理である。また いうまでもなく 比喩である。すなわち 隠れたる神=純粋欠如が 《〈生ける神〉の霊》として また《血の通った心の板に》として 語られることは 信仰の基本原則が 経験領域への踏み出しとしての応用原則において・すなわち愛として 経験欲望〔の主体存在〕とも 必ずしも・あるいは決して 切り離されていないことが 指し示された。なおも 信仰と思考とは はっきる区別されるのだが しかも 両者・両領域は つなげられるというよりも 初めに つながっている。もちろん これも 想定である。ただ 初めの想定に新しい視点が 想定されたとは思われる。というか この点は わたしの主観である。
初めの想定が 重層的なものになった・または 肉付けされ得たとも考えるが このあたりの議論は 必ずしも唯一絶対の正解が得られるとは限らないところの・妥当性にもかかわっているとは 言わなければならない。妥当性の領域であるよりはむしろ 信仰領域そのものだと考えられるが 論証しがたい想定展開だと言わなければならない。
( l )いまの主観に立った想定展開として言うことが許されるならば 要するに――今村理論やジラール理論との兼ね合いでは ともに志向するところの・暴力からの自由が 《いま・ここで》 無力のうちに有効だという一命題になる。
言いかえると 信仰領域での基本原則が すでにそのまま応用原則として愛をささえ いま・ここで 生きているということになる。
必ずしも主観にすぎないとことわらなくてもよいとすれば それはすでに――初めの想定内容として―― 基本原則では 信仰と思考とを分離するがゆえに 信仰はみづからと思考経験とをつなぐと捉えたことである(§9)。 
(つづく→2006-02-11 - caguirofie060211)