caguirofie

哲学いろいろ

#8

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅴ 信仰は どのように自らを社会関係の中で 役立てるか:どこまでも無力の有効として

――貨幣としての第三項について――

§20

貨幣としての《第三項》の問題 これが ここでの だし(だし汁・煮出し)である。

私の命名にかかる《第三項排除》の社会的論理は 人類学の用語を借りて言えば ブク・エミセール効果(または スケープゴート効果)とも言い換えられる―― l'effet de bouc émissaire; scapegoat effect; Sündenbock Effekt. したがって 排除された第三項たる近代貨幣は 定義によって 経済的ブク・エミセールであり また近代資本は 全般化された経済的ブク・エミセールである。
(p.110)

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

おそらく 供犠における犠牲身体は 経験領域において 《考える》の限りで・またその表現としてのみ 《排除された第三項》なのであろう。
そのような論理構制が それとして成り立つはずであり――また そうだとすれば 取りも直さず ほんとうの《排除された第三項》=《純粋欠如》の擬制だと考えられ この但し書きのもとでは―― そのことを 第三項還元であるとか第三項排除効果 つまり ブク・エミセール効果とよび得 また ここに見ようとしている近代貨幣の生成とその展開過程の仕組みも 上のように 経済的スケープゴート効果とよびうるのだと まず考えられる。
このようにして いまは 経験領域じたいの問題に入って来つつあるが しかも ここでの焦点は それらが やはり信仰領域とどうかかわるのか つまり どうかかわらないのかを あらためて見ておこうということにある。
《経済学を経済神話とみなし この神話の分析を通して 神話が語りかつ隠蔽する社会構造と社会過程の論理をあばいてみせ》(同上p.115)るとき そのような経済的スケープゴート効果という一つの分析理論が成り立つというのが ここでの糸口である。
もっとも ただちにすでに言えることは この問題は直接には まったく経験領域の問題なのである。貨幣をめぐる神話は あくまで経験思考の問題である。このことを繰り返す意味は そのときわづかに 人が意識しないところでも その論理(第三項排除効果)がはたらいていると論証されるならば それが ある種の見方では 非経験の信仰領域にかかわっているのではないかという疑いを起こさせるという内容が いまの分析理論には含まれているからである。
その疑いというのは 信仰を認めない立ち場からは 経済神話としてのそのような《信仰》は 大いに問題であろうという主張が含まれている。あるいは 別の見方(精神分析の立ち場)では 《無意識》におけるそのようないわくつきの《信仰》は 錯覚であり 社会共同の幻想にすぎないという批判とかかわっている。
前者の批判については すでに基本原則を述べて説明してきたし このあとも具体的に吟味していく。後者の疑いについてひとこと触れるならば まず《無意識》を立てる場合 その領域の内容想定が 問題となると考えられる。わたしたいの場合 かんたんに言えば 意識・無意識の全体の内面領域を通じて 人格全体にかんして 別の視点から《信じる》と《考える》という互いに無縁な二つの領域を立てたということである。
精神分析とは 初めの出発点が基本的に異なると思われる。

  • ただし ラカンのそれは わたしたちの信仰出発点と同じであるように思われる。
  • また 《第三項》がもし《考える》の領域に属するものであるとすれば そのことを 最後までつらぬく以外にない。逆に言って 想定として《信じる》の領域に属するとされるならば このことを つらぬく以外にない。(この仮想は 実存的な意味はないと思われる。)こういう立ち場であり それは初めの想定であると同時に 基本原則としては一つの結論内容でもあるはずである。

繰り返しつつ進もう。
この章での目的は このように人間社会における経済的な活動にかんして分析され認識されうるという第三項排除効果 これが あくまで経験領域に属するものであり したがって信仰領域とはかかわりがないと主張しなおすことである。
この経済的ブク・エミセール効果は 供犠におけるブク・エミセール効果がそうであったように なるほどあたかも信仰領域と その構制にかんして ある種の接点または類同姓を持つと見られかねない。従って この微妙は問題点について 具体的な一論点(貨幣論)に相い対して 議論をつがなければならない。そして このことと合わせて 信仰は社会関係のなかで みづからと無縁なことがらをそれとして明らかに見させ みづからにとどまることによって そのみづからを 社会関係の中では 直接もはや 役立たせないということが 信仰の信仰たるゆえんだと考える。これが ここでの新しい主張内容である。
わづかに 社会経験への踏み出しにかんしては 自由意志および愛=非対象化労働として 最小限の応用原則をも捉えようとしていた。原則というならば それは ある種の役立ちでもある。だが これも 基本原則における無力の有効ということ すなわち そのことによって 信仰は社会経験の中で直接の役割を何ら果たさないということ このことのゆえに 信仰は 逆に 社会関係の中で みづからを役立てているのだと考える。そのことが 応用原則にほかならないと言おうと思うのである。

§21

もはやここでは 具体的な議論の全体的な展開を追うことは やめようと思う。それは たとえば《排除の構造》の《第二部 Ⅴ 第三項排除効果 鄱 スケープゴートとしての近代貨幣 および鄴 全般化した流動的スケープゴートとしての資本》などにゆだねたい。
前記の目的のために これまでの議論の中から いくらかの論点を取り出して 吟味するということにした。むしろ長い引用によって 少しでも文脈を補うこととする。
(1)マルクスの商品論=価値形態論における《第Ⅰ形態――単純な価値形態 x = a 》にかんして

x = a は 明らかにまぎれもなく二項(対立)関係である。しかし同時に この二項関係は 潜在的テクストとして三項関係を隠している。なぜなら 等価形態の位置にある a 商品は 交換される物であるかぎりでは二項対立の一項であるが x を等価形態をもって尺度する原初的貨幣形式でもあるから  x に対して  a は第二項にして第三項である。等価形態の位置は つねに両義的である。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) p.120)

もしこのように 商品 a が商品 x に対して第二項であって 同時に〔その x を等価形態をもって《通約しうる》原初的貨幣形式としての〕第三項でもあるとするならば それは 経験領域においてそう《考える》結果である。その生成のときにも―― x = a という価値形態が初めに成立するときにも―― たとえ無意識のうちにだとしても 結局そう《考える》ところから出発している(または すでに踏み出している)のである。等価形態という尺度は――たとえ《通約者》ではあっても 愛のような統括者ではありえず―― 信じるの対象にはならない。強いて言えば この商品=価値形態やその通約者としての貨幣形式にかんして その妥当性を問おうとしている非対象化労働こそが 信仰=出発点の領域のことがらなのであるから。
よって この貨幣としての第三項は 非経験の純粋欠如ではありえない。このことを見ておけば 足りるであろう。
実際の問題は――先走りして言えば―― 単純なかたちでは この通約者たる貨幣が またその社会全般化した資本が 物神となってのように その限りで《信仰》形態を呈するという疑いのほうにある。
貨幣論にかんする吟味としては まだ序論であるが いま 逆説的に捉えて 次の如く前提事項を 共通のものとして明らかにしておくことができる。

価値の視座からいえば 商品 貨幣 資本は すべて価値形式である。そうだとすれば この価値形式 この根源的な経済的地平とは何ものであるか。価値形式は どこから降ったのか どこから湧いたのか。天から降ったのか 地下から湧いたのか。天上からでもなく 地下からでもないのだとすれば 天上と地下の中間たるこの地上の空間で 価値形式は説明されなければならない。この地上の空間とは 言うまでもなく 人と人との交通 社会関係である。
(同上 p .139)

というように 逆説的に捉えておくことができる。つまり あくまで基本は経験思考の問題である。
わたしたちとしては 次の事項をわざわざ つけ加えるかも知れない。わづかに愛(=非対象化労働)は その社会関係の地上で 無力の有効のうちに 信仰内面の自由意志を持続させようとして みづからを保持しているのだと。
(2)同じことが 念のため 次に触れられる《地下的労働 / 非抽象化的労働》についても 言える。それは あくまで経験領域における《考える》のはたらきを通してのある種 普遍的な概念形成の問題にすぎないと。
《貨幣形式から資本形式への転化・・・。非経済的な言い回しによれば 〈排除された第三項〉としての貨幣から 〈全般化した第三項〉(または〈第四項〉)としての資本への転化》(同上pp.140−141)にかんして まず

《第四項》は 排除された第三項のもつすべての性質を受け継ぐ。存在論的性質に限定していえば 《第四項》もまた《排除された第三項》そのものである。資本形式は 何よりもまず貨幣形式なのである。その形式の同質性ゆえに 貨幣的資本に転化する。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) pp.142−143)

とおさえて こう論じられる。

《第四項》形成のためには 一般的等価として

  • 通約者としてその機能が 論理的には いくらか愛に似ているその

貨幣の対極にある地下的労働一般が不可欠である。

  • すなわち 次のように 貨幣があたかもスケープゴート効果によって排除された第三項になることは まだ 論理形式であるにすぎないと見て そこに 中味を与えよう・捉えようということになる。そうすれば 無力の有効なる統括者たる愛に 論理形式としても また 機能内容としても 近づく または 同一となると言うかの如くであると言う。

《第四項》形式の十分条件 それが地下的労働である。そうすると 《第四項》=資本形式は 図式的にいうと (a)貨幣形式〔=いまの《第三項》〕と (b)地下的労働からなるといえる。・・・
地下的労働とは何者であるか。それは 具体的な生産的・対象化的労働ではなくて 私のいわゆる非対象化労働である。非対象化的労働が地下的という形容をうけとるゆえんは それが経済形式の下方に排除されるばかりでなく 具体的生産的労働の蔭にすらかくされているからである。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) pp.143−144)

この《地下的労働》ともよばれる《非対象化的労働》は わたしたちの 愛と同一とした非対象化労働ではありえない。無意識がからむにせよ 経済形式の下方に潜むと見るにせよ 人間の思考の領域に すべておさまると言わなければならないからである。
この第二点も はっきりしているであろう。対象が 経済的な貨幣・資本なのである。または その通約者として 抽象的ではあっても それらの概念なのである。
じつは わたし自身 《資本》のことを 《愛》だといったことがある。それは むろん 経験領域をもひっくるめた広義の愛のことであった。狭義の愛 すなわち信仰の自由意志の内面出発点における自己の持続過程 またその・ある種 推進力としての愛 この意味での非対象化労働は 経験領域におけるいまの貨幣や資本の そうだとすれば第三項排除効果という社会過程に対して これに対してさえ ある種の形で統括者の立ち場にあって その自己を保持しつつ 見守っていく主体の立ち場にあり かつ 生きているその側面であるしかない。

  • 第三項排除効果という社会過程の深層における論理と機能とに対して あたかも 統括者の立ち場にあるかと思われる愛が 狭義のそれである。

§22

(3)ただし これらの社会現象を スケープゴート効果という視座から見て 次のように総括することは ある種のしかたで 愛の問題である。局面が回転していくと思われる。

未開社会における宗教的儀礼と禁止の体系は スケープゴート効果の両面である。両面というのは 一方がスケープゴート効果の日常的発動の禁圧であり

  • つまり 犠牲をつくりだすことへの禁止という日常=《ケ》の側面であり

他方がスケープゴート効果の時空的に限定された形での再演であるからだ。・・・

  • 他方では 非日常=《ハレ》における犠牲の儀礼の執行であるという。

ところが反対に 近代社会では 日常生活自体が――貨幣経済にとりかこまれるかぎり――禁止の創造であり

  • つまり 《犠牲をつくりあげてはいけない》であり

儀礼の創造である。

  • つまり 同時に 犠牲をつくりあげた である。

毎日の生活が・・・禁止と侵犯は たえざる同時生誕 co-naissannce であって 時空的な区別は解消する。貨幣を媒介にして商品交換がおこなわれることは 禁止と侵犯が同時におこなわれていることなのである。・・・貨幣は 商品世界からはじき出されながらも(排除禁止) たえず商品世界のなかにそのメンバーとして回帰してくる。禁止がつくられたとたんに犯されてしまうという事態が 近代市場経済では日常茶飯事となっているわけである。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) pp.152−153)

もし スケープゴート効果が 供犠の儀礼を通して 擬制的にあたかも純粋欲望の愛を表わしてのように ただしつまり経験的にであるが 人びとの社会関係にとって 必要・不可欠のものだとしたなら 近代社会においても 貨幣と資本をとおして あたらしい別の・日常化したスケープゴート効果を 人びとは擬制的に享受しているということ になる。
そうせざるを得ないかのように その新しい第三項排除効果を 社会の・つまり 経済的だけではなく文化一般的な制度として〔の資本制をとおして〕 編み出し それに取り巻かれつつある情況の中で 同時にそれを享受しようとしていることになる。
おそらく 上の引用文での主旨は たとえそうであっても そこで このような擬制としての(つまり 経験領域での)愛ではなく まさしくそれに先行する人間存在の条件の領域に 非対象化労働を想定して それによって 自由人の連合 association をも 最小限の応用原則の側面過程で 享受することができるようにしていこうということである。
この視野は 広く愛の問題なのである。
また 先取りしていえば ここからは 逆に言って いまの経験領域での第三項排除効果・つまり経済的なブク・エミセール効果をも できるならば――愛によって―― わたしたちは 活用していこうという方向が 提示されうる。一面では 棄てるべきものは棄てつつ 全体として その方向へ あたかも踏み出していこうと。
(4)このとき 《暴力》の問題もかかわっていると説かれていく。かんたんにいえば 非対象化労働=愛が 対象化労働にかかわる暴力を超えようとしており それは 供犠における犠牲の禁止と侵犯という根源的な暴力から 自由になろうとすることである。スケープゴート効果が そしてその経済版としての貨幣の生成が(つまり 第三項の排除とその侵犯とが そこに 同時生誕 co-naissance するというあり方が) 《暴力》だという主旨である。

例えば〔近代以前の〕宗教的儀礼は 禁止は逆に スケープゴート効果の演劇的・祝祭的再現をおこなうのであるが そのことで〔日常では〕禁止された暴力〔=排除〕的エネルギーを一時的に噴出させる。・・・
近代社会は 農民追放と重商主義的致富政策とともに とりわけて産業革命によって スケープゴート効果の全面的組みなおしに成功することになった。もともとスケープゴート効果は 暴力的であり それの近代的な組みなおしもまたいちじるしく暴力的であった。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) pp.153−154)

この暴力論は 次章に見てみよう。貨幣・資本論もまだ 間接的にも つづくはずである。

§23

この章のまとめとして。――
実際問題として 無力のうちに有効なる愛というはたらきを持った信仰は 社会の経験領域に対しては もともと(近代以前から) なんら直接のちからを発揮しえないものである。いまの暴力とは 社会の中から何者かを第三項として 結果的に通約者として 排除するという経験思考のことなのであり この思考とは無縁な信仰は 社会関係の上で無力だが有効なものとして やはり暴力から自由であると言えそうである。
このやはり想定を 歴史を通じて 見直し あてはめていくという一つの想定も可能であろう。
ここに至れば 一つに 何が信仰ではないか これにかんして――これにかんしては 想定の限りで 十分に――明らかにすることができる。もう一つに 信仰はみづからをすでに社会経験の領域に 一切かかわらせないということ――もともt かかわりないのだから かかわらせないということ―― そのことによって みづからを改めて位置づけ かつその有効性を保ち じつは そのようにして みづからの有効性(人間性)を発揮しつづけている こう言えるであろう。
主観の内におさまるにすぎないと言わなければならないとしても。つまり むしろ 思考としての主観など いっさい持たない いっさい持ち得ないというところで 有効な領域が生きると言うべきであろう。
ふたたび・みたび 応用原則として踏み出す。或る種の統括者としての愛のはたらきが 社会経験に踏み出す。踏み出すかにして 出発点として持続する。このあとは すべて 経験領域にかかわって 考えるというはたらきに 任すことになる。愛を引き継いだ思考は その経験合理性という一つの基準にもとづき 互いに議論し判断するのである。わづかにそこでも つねに 愛が 出発点でありつづけるのだと捉えられる。
つづく→2006-02-08 - caguirofie060208

(つづく)