caguirofie

哲学いろいろ

#9

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅵ 愛が 信じると考えるとをつなぐ

――第三項排除効果にかんする暴力論について――

§24

《もともとスケープゴート効果は 暴力的であり それの近代的な組みなおしもまたいちじるしく暴力的であった》という。
ここで その暴力は 第三項排除効果という経験思考の問題なのであるから 信仰の基本原則から言って その暴力としての排除は 無効である。つまり 被排除者の自由の侵犯は 無効である。したがって 全体として そのような社会経験は 有効か無効かではなく 少なくとももはや妥当性の問題として扱わなければならないというところまで話がすすむと思われる。思われるのだが それでも いわゆる演繹的な議論を繰り返すだけでは 話が退屈であり もはやあまり意味を持たなくなる。しかも ここでは 妥当性の問題事例にかんして そのことじたいを問おうとしているのでもないから けっきょくわたしたちの課題は 信仰の基本原則にかんして それと経験思考の領域とのむしろ関連を必要な限り 考察しておいて そのあとは 経験妥当性の議論に席を譲ろうというところまで進むことである。
言いかえると 愛は持続過程であるから 或る意味で経験領域の外に立ちつつ その経験領域との関連で どう持続していくのか このことを 一定の具体経験を例に取り上げて 実践してみておこうということになる。
具体経験といっても ここでは それをさらに類型的に抽象的にとらえた内容例であるから いまの実践は じっさいには 考察という範囲を出ない。――思考経験とは無縁だと言いながら その愛の持続するあり方を《考察》するとは なにごとか。それは 想定の検証としては ことばで表現する説明も必要なのであり したがって いまの考察は 思考としての実践になることも やむをえない。暴力なら暴力という経験に対して 愛はどのようにみづからを持続させているか このことの説明実践が いまの課題です。

§25

スケープゴートとなる第三項とは 要するに あたかも一般にいう第三者をつくりあげると それが 当事者のあいだに 当事者たちを通約する一定の尺度として・つまり尺度なる概念として生み出されるというのである。排除されたのであるにもかかわらず まさにそのことによって この排除された第三項は 排除した側のすべての人びとにとって 一定の通約者となる・つまり共通項となる――例外なくそうなる――ということであるらしい。
排除が完成したときには 第三項は もはやみづからの被った性格規定。すなわち第三項であることを 隠してのように こんどは 残った経験領域のすべての項のあいだに あたかも再生して潜在するという。
この第三項排除効果――供犠においてはスケープゴート効果――は 本質的に人びとの経験思考の産物であるのに 各自の意識に潜在するという結果となっている。また この潜在意識が 地下的労働となってのように ある種の仕方で 愛=被対象化労働の役割を果たすかに捉えられるという。共同性の連帯性――アソシアシオン?――や秩序が まさにこの第三項排除効果によって 繰り返し作り出されつつ 保持されるのだと。
残念ながら 人間社会は このような創成的な暴力によって 存続してきているという少なくとも一側面を 決して軽視することができない情況にあるのではないか このように説かれている。
さらになお 第三項として供犠の犠牲が 経済活動における貨幣へと変わったときには その第三項排除効果としての仕組みの根底にあるとされる暴力が 社会にとって全般化し かつ 日常化したのだと。
すなわち 第三項の創出は スケープゴート(その排除)をつくりあげてはいけないという禁止を侵犯することであり 同時に この創出された第三項は あとに残った他のすべての項のあいだに 通約者として回帰し潜在するようになる。そうすると あたかももはや各項(または人びと)は スケープゴートをつくりあげる必要がないほどになる そうなったという観念を共同に抱き かつそれをも潜在意識へおさめてしまうならば その禁止を守ると見えるということである。
と同時に その各項のうちに潜在する通約者は じっさいにはなおも構制としてははたらくというのだから そこではつねに 禁止が破られている。一定の社会秩序が維持されているというのは じっさいには そういう内実のことなのだと捉えられた。
このように 禁止(排除の)と侵犯とが 両方とも日常的に――深層において――おこなわれるようになったのが 近代貨幣または資本としての第三項排除効果だという。そのような少なくとも経済社会の全般的な実現としてである。かんたんにいえば そのときには 宗教儀礼としての犠牲という第三項を必要としなくなり これに取って代わって 貨幣という新たな第三項がつくり出されてきたのだと。すなわちこれの社会的な実現が 近代以降 現代社会にまでつづけられてきているのだと。

価値形態とは 社会的行為であり 社会的行為とはまさに除外する行為である。《それは 商品世界が一つの単一な商品種類(金)を仲間から除外し この商品種類ですべての他の商品が自分たちの価値を共同で表現するからである》。商品世界の価値関係とは 社会的な暴力を発動する社会的行為なのである。そしてこの暴力(除外・排除)をもろに被るのが 第三項としての価値形態であり つまるところ貨幣形態である。
(p.72)

暴力のオントロギー

暴力のオントロギー

考えてみれば このとき 仮りに表現として 近代市民たるわたしたちは 貨幣を犠牲として 社会を仕組みなおしてきたのだとしても 必ずしも誰にも――その仕組みじたいとしては――不都合なことはないとも考えられるのだが 問題は そこに結果している潜在的な第三項排除効果のほうにあるというわけであるらしい。
単純な言い方としては かつて宗教観念によって犠牲となった第三項が あとに残った人びとに ある種の怨念をもって 呪いをかけていたと もし人びとの主観に関する限りで 捉えられていたとすれば 貨幣という第三項は やはり同じように そのような呪いを同じように人びとにかけているかも知れないという話である。その実例および論証としては 供犠の犠牲が 人びとのあいだでその呪いからの解放のために 共同体の聖なる神であると 共同に観念されていたとするならば 新たな経済神話としての犠牲たる貨幣は 同じように神(いわゆる物神)となって人びとをひきつけているのだと。
このとき 労働にかんしても 同じようなことがと言えるとされる。すでに触れた(§21(2))ように 労働が 対象化的労働と非対象化的労働とに分裂した。すなわち個々の対象にはたらきかけて生産をおこなう具体的有用労働と そしてそれらを価値尺度として通分する抽象的人間労働とに はっきり分けられ 後者が――貨幣また資本として―― 中味のある第三項となって 全体で 第三項排除効果が 作り出されているし そのまま やがて社会全般的に はたらくようになっているのだと。
労働じたいも 創成的な暴力(第三項としての排除)というある種の土台の上に 成り立つようになっているのだと。わたしたちの労働じたいも のろわれているのだと。のろいの意識は 潜在的であるなしにかかわらず 現実の意識なのであると。

§26

これに対してわたしたちは まず ある種の空想としていえば たとえば《各人がどんな排他的な活動範囲をも持つことがなく どんな任意の部門ででも腕をみがくことができる社会》(§14)の その各人における出発点(統括者)としての愛=それとしての《非対象化労働》を 想定の展開として論じることから始めた。
そしてここでは 《暴力》をどう扱うかに問題はある。この暴力は むしろ排除の禁止とその侵犯(つまり排除)のことであるから やはり愛の持続過程としての 思考実践となるはずである。
らためて 次の事態の認識から事は始まると思われる。長い引用となるが。――

〔資本制〕生産様式の運動のエレメントは 第三項化と暴力である。そしてグローバルな社会体について暴力が語られるとき それは ふつう闘争とよばれる。社会存在の理解のためには 最も根源的な現象なる闘争を除外することは許されない。資本制生産様式のみならず 他の生産様式の場合においても 根源的暴力と闘争の独自の在り方が問われることになる。単なる狭義の経済的規定で済ませるわけにはいかない。
暴力のオントロギー p.81)

問題解決の第一は いうまでもなく 前提として 経験領域において信じると考えるとを同一視した 供犠一般における犠牲の構制(つまり 第三項排除効果の 経験思考にかんする部分) これが 無効だということである。このことは 基本原則の同語反復ではなく 積極的に まず 言われるべきだと考える。宗教儀礼としてのその構制にかんしては もう批判済みだとするならば 貨幣の第三項化の構制にかんしては 現在ただちにその社会現実としての仕組みをどうこうするというわけにいかないであろうから まずは それが 無効が実効性をもって社会的に有力となったものだと 共通の了解を形作ることである。
いいかえると 人間・生物の犠牲とはちがって 貨幣という第三項は もはや犠牲ではない・つまり少なくとも宗教儀礼における第三項排除効果の原因となるべきものではないと 理論的に認識できるはずである。貨幣には のろいがなく あるのは のろいがかけられているという・経験思考の信仰化である。
言いかえると 近代社会は 供犠の犠牲(また あるとするなら その呪い)に代えて そのまま 貨幣を犠牲としたのでは ありえない。一たん――少なくとも理論上―― 宗教儀礼の犠牲とその構制を 確かに無効のものとして 廃棄した。廃棄しようとして再出発した。そのとき 経済活動なり社会的な活動一般なりを――理論上――自由におこなうという新しい舞台に立った。すでに存在していた貨幣を その新しい社会の制度の一つにあらためて取り入れた。ここで いわゆる古い社会の母斑としてのように 供犠の犠牲にかんするその第三項排除効果という構制のほうは なお残っていたのだと考えられる。すなわち一旦 切れた上で 第三項化ののろいが そうとすれば今の貨幣に乗り移ったのだと思われる。人びとの意識情況が そうさせたのだと思われる。
これが 問題解決の第一点として 信仰と思考とを区別するという原則のことだと考えられる。しかも じっさいには 近代以前の宗教儀礼にかんしても 事後的にではあっても この基本原則は あてはめることができると思うのである。つまり そのスケープゴート効果が あたかも信仰と同一視されていたとするならば まったく無効だったのであり 無効が実効性を持っていたというにすぎないのだと。しかも この理論認識は 近代市民の一つの出発点において すでに実現したと思われるのである。
したがって 実際問題としては 第三項排除効果が 近代の以前と以後とで 供犠の犠牲から 貨幣へと 連続した・人間の歴史経験として うけつがれたとは 考えないということである。仮りにそのように受け継がれてきているとしか考えられないとしても いま その思考形式を あらためればよい。もし現在においても そう考えることができないのだとすれば いま今村理論において 《非対象化労働》を提示し その有効性を主張する意義は ない。
貨幣生成における創成的な暴力といわれるもの 資本をめぐる根源的な闘争とよばれるもの これらは《単なる経済的規定で済ますわけにいかない》とするなら しかも それらは やはり無効の上に成り立っているとまず宣言することができると思うのである。愛の持続過程は 社会経験の領域へ踏み出すとは言っても どこまでも無力の有効なのであるから 無効が実効性をもって有力となった経験事態に対して 非力なのである。ということは――想定上―― この有効な持続過程である愛は 無力なるがゆえに 決して 損傷を受けるまでにはいたっていないし そもそも受け得ないのである。いうとすれば ここに 闘争がある。
この意味で非暴力のたたかいである。出発点の非対象化労働は 貨幣や資本の有力に対して 別種の有力となってのように 対抗することはできないということである。妥当性の原則にもとづいた言論 これが わづかに小さな有力ではある。そしてここで 愛が 信仰と思考とをつなぐという一つの命題が 生きると思われる。愛は 能力によって 暴力となりえないという大前提の上に わづかに経験妥当性の思考とその表現が 活用されていく。ここには 希望――かたち(対象)のない希望があると 言われる。
あらためて問題解決の第一は 犠牲は 第三項として各項の通約者であることにおいて 出発点におけるある種の統括者である純粋欲望の愛に いくらかは似ているということ したがって犠牲は そのスケープゴート効果において じっさいには 愛の擬制となっているのだということ これが 信仰と思考との区分として 言えるのだし このことが 愛の持続過程における一つの思考実践だと考えられるところにある。
ちなみに 擬制・つまり 無効が実効性をもった形態は 自由意志の問題である。自由意志にもとづくゆえ 経験思考による一定の形態も 無効でも 実効性をもちうる。その有力を 別種の有力によって 排除しないし 能力によって 排除し得ないから。
けれども これだけでは 済まされないのかも知れない。愛とこの暴力とのからみあいを もっと実際の問題として 扱う必要が生じてきているのかも知れない。ということは 妥当性の問題に入るのだが 議論としては まだその経験思考のみに一任するところまでは 行っていない。これを さらに次節で追ってみよう。
とりあえず やはりここでも 信仰の基本原則を繰り返す以外になかった。これを積極的に主張しようと思えば 持続過程であるなら 出発点たる自己の 無限の自乗過程ということになる。自己が数学の《一》ならば その無限の自乗も どこまでいっても 出発点としての《一》である。これは 《純粋欲望》というゆえんだとも考えられる。

§27

ここでは いくらか具体的な議論ができると思うのである。愛が 信じると考えるとをつなぐという・あらかじめの結論にかかわって。
(1)

人間とはおそろしいもので――と今村理論は説いていく―― 人と人との交通を滑らかに進行させるためには 現実的にであれ想像的にであれ 必ず犠牲者をつくりだし その犠牲者にすべてのけがれをおっかぶせる。ホーソーンが描いた犠牲者=ヘスタの狂信者たちがおこなった残酷物語ではなくて 人類の社会関係に普遍的に共通する最も本質的な事態を表わしている。・・・(以下つづく)
ISBN:4326251129:title p.94f)

この(1)について。ここまでの部分にかんしては 人間社会の経験領域では そのようなことが起こっている また それについて確かに上のようにも考えられる しかも――鬼になってのように言えば―― これだけのことだと まず言うことにしよう。
この《考える》の領域で 第三項化にかかわる暴力は 《最も根源的な普遍的な現象たる闘争》をうみ出し 《人類の社会関係に普遍的に共通する最も本質的な事態》であるのだろう。無効が実効性をもって有力になった限りで そうなのであろう。無力の有効な愛は 社会経験として 有力たりえないから。しかもおそらく そういう形(基本ないし応用の原則)で 愛は その有効性を発揮すると わたしたちには 信じられるのである。
この犠牲者を出すという暴力の事態を通じて この愛には何の損傷も受けていないからである。そうではなく もし かつて有力であったのなら このような事態を通じて 力が減じたということにもなったであろう。もともと 形(対象)のない希望として 持続してきている。まず このことが 第一。
(2)次は(1)につづく文章である。

緋文字の女へスタが共同体から排除された犠牲者であるということは 緋文字の担い手が〈悪魔〉や〈獣〉にひとしいということだ。そして古代人の想像力は 〈獣〉や〈悪魔〉のイメージを貨幣に結びつけてもいた。ヨハネ黙示録はこういっている。

彼らは心を一つにしている。そして自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のないものは みな 物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は その獣の名 またはその名の数字のことである。

ISBN:4326251129:title 承前)

《不倫の恋によって子供をもうけたひとりの女》が 《共同体から排除され》 かつ《胸にいましめの緋文字Aをつけて共同体の周辺に生きつづける》というのは その当時・その社会の倫理・慣習・法律のいかんを問わないとすれば スケープゴート効果の一例だと言える。かのじょは 《犠牲者である》。
まずこの場合 何もないところから・つまり無実の罪で そうされた(第三項化を受けた)のでない点は 措いて考えることにしよう。そうすると要するに その共同体の中の一人ひとりにとって・また互いにとって けっきょく《人類社会に普遍的に共通する最も本質的な事態》としての暴力と闘争とが 展開されていると捉えることができる。つまりそれはそのように分析してそう考えるということである。《緋文字の担い手が〈悪魔〉や〈獣〉にひとしいということだ》というのも そのように人が経験領域において 《考える》ということだ。
このような経験思考が経験思考であると捉えることが 《愛は みづからの信仰と そして思考とを つなぐ》ということなのだ。この結論を重ねて述べることが ここでの解決なのである。
――特定の慣習とそれにもとづく事態の展開とは また別の問題として残るであろうが。――なおいま上に述べた解釈が 一つには ヨハネ黙示録の解答だとも わたしたちは考えている。
(3)

緋文字の女へスタとは ヨハネ黙示録ふうにいえば まさに貨幣なのである。逆にいえば 貨幣とは 第一次的にいえば 共同体から排除された犠牲者であり 獣であり 悪魔なのである。貨幣は 獣たり悪魔たるかぎりで 共同体の価値を維持し 共同体の存続を保証するものである。
(承前)

最後の一文は くせものである。第三項化の暴力と闘争とが 人間社会に不可避のものであるとするなら そう考えることができ そう言えるのであろう。そして それだけのことである。それ以上でも 以下でもない。以上でもないというのは その思考経験が あくまで信仰領域とは区別され しかも 信仰に後行するという想定では その信仰・愛また希望を 侵犯することはありえないから。以下でもないというのは 事実そのことが起きているのなら そう言うよりほかないから。
ただしわたしたちは 人間の存在を保証するもの――人間が人間たるその条件――は 純粋欲望の受容たる信仰に発するとは 見た。すなわち ここでも 《貨幣は 獣足り悪魔たるかぎりで(=スケープゴート効果としてある限りで) 共同体の価値を維持し 共同体の存続を保証するものである》。無効が実効性をもって有力となった第三項排除効果(またその暴力と闘争)としてある限りで なのである。
(4)

天国の存続は地獄の存在によって保証される。神の威光は悪魔や堕天使のおかげでいやます。社会的コミュニケーション 成功は 自らの内に〈内なる外〉としての〈地獄〉を造りだすことで成就される。
(承前)

この部分の分析は 明らかにまちがいだと言うことができる。または 無効なる第三項排除効果が 人間(社会)の人間(社会)たるゆえんだという前提に立つなら 正しい。斯菓子の場合には 天国も地獄も 神も悪魔も堕天使も そしてもとより獣も すべて 経験思考の産物であり 単なる観念にすぎないということである。これらの観念を 思考によって整理する限りで 上のように言うこともできるのであろう。そして ただそれだけのことである。
ただし 観念(天国)の存続が観念(地獄)の存在によって保証されるというのは あまりにも こっけいである。けっきょく 経験思考をあたかも信仰だと錯視する場合には その念観する意識の中で 地獄は《内なる外》つまりあたかも純粋欠如であるように見えるというのであろう。《犠牲信仰》が 純粋欠如の信仰の 擬制であるというゆえんである。
また 同じことは――この擬制の構造にかんしてまでは 捉えているということは―― 暴力普遍=闘争本質説に立つ人も その擬制をこしらえるようになる初めの先行領域のことを どこかで 意志(欲望)するかのように 思っているのである。
経験欲望に先行する・その意味で普遍本質の領域として 信仰なり隠れたる神なりを 想定してもいるのである。想定しているからこそ このような一分析理論を捉えることができたのであろう。逆説的に 愛の有効が 証明される。ここでは 神(純粋欠如)にかんして 信仰の神と思考(観念)の神とがいることになる。

§28

補足すべきことがあるとすれば この無効の思考形態が生じるのは―ーそしてしかも実効性を持ちうるのは―― 自由意志という基本原則から発しているからである。思考の神学というこの観念形態(イデオロギー)じたいは 想定の限りで 無効であるが 有効性を司る進行領域の自由意志の広義の能力によって思考されることにまちがいないわけであるから ある種の経験的に無効が実効性をもち さらには有力にもなりうるというわけである。
このことは 自由意志が 信仰を認めない・隠れたる神を受容しないという自由をも含んでいるし許容しているという基本原則に かなっているはずである。純粋欠如また純粋欲望を 受容するか否かは 各自の内面出発点において その自由意志に任されているからである。
また経験領域そのものにおいては その経験欲望の展開も 各自 その自由意志に任されている。もし応用原則としてそこにつけ加えることがあるとすれば わづかに経験行為への踏み出しにおいて 愛が 信仰の持続するはたらきとして ある種のしかたで経験欲望一般の統括者となっているということにある。
このことの具体内容は 一般に経験合理性という一つの判断基準のことである。ちなみに 形式的で論理的のみの合理性では 用を成さないというのも 経験領域では合理性の問題である。自己(愛)が自己(愛)であるという自同律(アイデンティティ)が 合理的な判断の 経験的に妥当であることを指し示す。この妥当性は むろん 信仰の有効性そのものではない。
経験妥当性としてだけでなく 信仰の有効性としても たとえば仮りに純粋欠如としての《天国》の存続というものは 経験思考にかかる何ものによっても保証されるというものではない。犠牲をめぐる天国と地獄などから構成される観念体系として 暴力が 一つには 成り立っているとするなら この暴力という経験思考を超えた一領域が なお別個に 想定されてもよいだろう。
(5)

同様に 近代の市場経済における商品と商品との交換がうまくいくためには 商品世界から〈貨幣商品〉をひとつたたき出し追放することを要する。貨幣とは 商品たちが全員心をひとつにして何ものかを十字架にかけたことから生ずる。貨幣は十字架上の犠牲者なのである。
(以上(1)からの一連の文章:ISBN:4326251129:title pp.94−95)

この点に関しては もはやくどくど言う必要はあるまい。
ただしここでは 聖書の十字架上のキリスト・イエスが けっきょく経験思考の問題としてその領域においてこそ 暴力と闘争の展開過程の中で 第三項化され その結果として―ー緋文字の女へスタの例ではないが―― 歴史上の一事態として わたしたちはそれを無効だというところのスケープゴート効果を担っていると主張するような一議論が からまっている。
この問題は 今村理論にも間接的にかかわるところのR.ジラール論が 一つに 参照される。この点は 次章でとり上げよう。この章では 愛が 信仰と思考とをつなぐ そして無力のうちにつなぐことが 人間にとって有効性の証しであると考えた。たしかに暴力に対してわたしたちは 無力である。経験領域で無力でなくなるには 暴力の有力を別個に対抗させねばならなくなる。有力と有力との対抗も じっさいには 無力だとみる見方も ある意味で一般なのである。この後者の見方は 単なる妥当性の問題であるかも知れない。
(つづく→2006-02-09 - caguirofie060209)