caguirofie

哲学いろいろ

#12

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅶ §33

( m )余録としてのように述べることができるとすれば 実際問題としては 信仰領域が ある種のかたちで 具体的な形態を持つと考えられることが 一つの論点となる。
これは どこから見ても 妥当性の問題なのであるが 一個の人間主体は 互いにそれぞれ 非経験の信仰領域と経験の思考領域とを合わせ持った・社会関係的の経験存在であるから そのことに対応してのように 純粋欲望の受容ということが 類的な普遍性としてだけではなく 個別に特殊の 具体的な信仰形態として 現われてくるとは思われる。
いまの聖書の問題として言えば この聖書じたい それは 普遍性としての信仰領域一般を論じているとともに 特殊性としての具体的な信仰形態をも指し示していると思われる。仏典やコーランにしても 理論的にいえば 同じようにであり むしろ実際には さらにひろがって あらゆる世界の現象にかんして観察しそれをとおして表現した事柄 これらは――信仰説明である限り―― それぞれ特殊にみづからの具体的な信仰形態として 普遍的な純粋欲望=信仰領域を証し示そうとしたものだと考えられる。
しかも ここでこそ 信仰と思考との区別は 人間の出発点として大前提なのだと考えられる。そのぶんには 人間のことばで・従って経験具体的な内容をもったことがらで しかもそれらを通して 出発点としての自己を表現しようとする個別的な信仰告白が 無効にはならないかたちで 存在するとも考えられてくる。このことは 信仰がもはや愛の持続過程として 一般的な広義の愛=すなわち経験欲望にかんする思考表現=つまり妥当性の領域へ 道をゆづるということに付随して 実際にはつねにのごとく 社会経験される側面があると考えられることである。
このときにも――つまり信仰の特殊性としての表現形態が 付随してありうるというときにも―― それはすでに 妥当性の領域に入っていることである。基本原則は もともと 想定にしかすぎないのだから 当然といえば当然である。いいかえると 事はすべて妥当性の領域で展開されているが 信仰の基本原則を想定することは その経験妥当性における社会交通にかんして 一定の交通整理をしつつ進みたいという事情にもとづいているし また それにしかすぎない。
( n )こうなると 信仰と思考とを混同してはいけない そしてそうすればそれは無効であると言っておきながら おまえはその混同をせよと言っているのではないかと とがめられるかも知れない。そうではない。また そうではないと信ずる。
それは 実際にはすべて人間の表現は 人間のことばを通して――ことば以前の意思疎通にしても ことばに翻訳して 少なくとも第三者には 伝えられるのであるから 人間のことばを通して――交通が成立するということ そしてもう一つには 自由意志はあらゆる選択を許容するということ これらの事情にもとづいて 〔人間の表現は〕 信仰と思考との両領域の混在をゆるしている。
この事実問題としての出発点(または 信仰の出発点の 現実における推進過程)に立てば それぞれ現実に見られる信仰の特殊性としての形態は 互いに容認せざるをえない。経験思考そのものだと明らかにわかる観念の信仰形態 これについては 一般に供犠の事例をはじめとして 無効であると 原則論をあてはめることができると思われるのである。
( o )ちなみに 信仰の特殊形態として 《キリスト・イエスが 神の子であり神である》という表明は そういう問題である。
歴史経験としてのイエス・キリスト問題では ありえないのであり またそうでないという大前提に立っている。つまり上の表明は 純粋欠如・純粋欲望そしてその信仰を 人間の具体的なことばで 特殊に表現したものである。すなわち同じように この純粋欠如のことが ヤハウェー・アッラーブッダ・宇宙の原理・真理また無神などとして 特殊に立てられていく。信仰領域をどうでもよいと見る立ち場 いわゆる無宗教とか無神論・これらも 信仰の特殊形態なのである。観念の神ないし観念の無神 あるいは供犠の犠牲宗教ないし第三項排除としての暴力信仰 これらに陥らなければ すべては 自由意志の原則にもとづいているとしなければならない。
( p )キリスト信仰という特殊形態に沿って言うとすれば いまのことは 純粋欠如が 歴史的に 人間社会に介入したということである。
抽象的な想定としての信仰の基本原則が それに終わらず 現実問題として おのおのの主観(自己)において そこまでの具体的な展開を見せたということであり しかも実際にはむしろ話は逆なのである。そのような現実問題が ともかく先にあって その交通整理のために 基本原則を想定して 考えてきたというにすぎないはずだから。
基本原則の 無力の有効性は そのまま まさに経験領域の中で――経験思考そのものとしてではなく・経験思考そのものとなってではなく しかも経験領域の地に立って―― はたらくということになる。これは 想定のほうから引き出した結論内容である。
おそらくこのことは――人間が経験存在であり この地上にあって いわゆる生身の存在として生きるから―― キリスト信仰に限らず どの信仰形態にあっても 肯定されるべき具体的な出発点だと思われる。この具体的な出発点というのは すでに信仰の出発点=個々の主体が 現実に出発進行している姿だと考えられる。
ここでわたしたちは 日常生活の実際において一般に 経験妥当性を 議論の中で 争うということになるであろう。その限りで 経験合理性・経験科学が 一つの判断基準となる。すなわち信仰領域は その背景にしりぞく。しりぞいてよいことになる。わづかに現実問題としては 信仰のそれぞれ特殊形態が この経験妥当性に反することなく 息づいていること これも 反面の真実である。無神論も有神論も まったく同じようにである。
ここでは 妥当性の議論が 結着がつかず無限につづくとも言えるが――それぞれの段階で結論を出しつつ あらたな妥当性を求めて つづくと言えるが―― その持続過程は もはや愛の有効性に裏打ちされていると言ってよいと思われるのである。
( q )ジラール論に触れて 以上のことが言えると思う、
あらためて信仰の 有効な特殊形態ということで補足するとすれば たとえば 次のような形態も 有効だと――無効ではないと――考えなければならない。供犠における犠牲身体を見て それをあくまで《指標のごときもの》として・つまり ことばで捉えた代理を自己のうちに見て そこで――ということは すでに犠牲身体から離れて―― 自分は純粋欲望を受容したという場合があるとすれば これを否定することはできないと思われる。
この信仰形態はすでに 犠牲の儀礼ないし一般の犠牲行為を まったく 否認する立ち場にあると思われる。歴史経験そのものの問題ではなく 社会経験そのものにかんする分析思考じたいではなく それらを超えたところに みづからの信仰とその主観における特殊形態を持つことは ありうると考えられるのである。
早い話が 信仰領域は 非経験でありつつ 具体的な経験事態に触れて 起こり来ることがありうるとしなければならない。何も起こり来ないという場合も 大きく一つの信仰の特殊形態だと考えられる。あらゆる事柄が 信仰のきっかけになりうるのだと。
そして このこと・すなわち 非経験の信仰領域が 実際には 経験具体的な特殊形態としてあるということ このことについて考えるなら 信仰領域だとか純粋欲望といったことがらは あまり実際には用いないほうがよいかとも考えられる。しかも 妥当性の追求という持続過程が 一般にも愛の持続過程として捉えうるかと考えられる。信仰は 直接の表現の場には 消えるが 愛が残って 生きる。経験妥当性は 愛に裏打ちされ 愛は信仰に支えられている。
こう言えるとともに もし愛がどこまでも残って生きつづけるとすれば――妥当性の領域がつづくのだから その裏打ちとしての愛が生きつづける とすれば―― むしろ 純粋欲望の受容としての信仰は 愛に由来しているとも逆に 考えられる。その意味で 純粋欠如が 無力の有効の根拠として しかもそれが人間主体にあっては《内なる外》として 表現上 愛であるとも捉えられる。この意味で――この意味でも―― 愛が 信仰と思考とをつなぐと考えられもするのである。現実には 目に見える形として 何も起こらないと考えられることと 同時である。
あと一章をあてて 補足したいと考える。
(つづく→2006-02-12 - caguirofie060212)