caguirofie

哲学いろいろ

#14

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

? §36

次の長い引用文の中で 註釈をまじえつつ 議論していこうと思う。

ところで 貨幣形態が自立し いよいよ商品的市民社会が鏡の部屋の閉構造(――社会全般的な経済的スケープゴート効果がはたらいている情況〔引用者〕――)を完成するにつれて 先に指摘した《とりちがえ》《転倒》もまた完成する。

  • すなわち たとえば労働に関して 一方でその具体的な活動とその成果をおき 他方でそれらを通約する価値としての抽象概念が成立し しかも前者は後者のあらわれにすぎないと見なされる。そういう経験思考としての観念体系=経済神話。――引用者。以下同じく。
  • 第三項として犠牲とされたもの(=貨幣)が 犠牲をつくった他のすべてのもの(=商品ないしそれを扱う人間)に いわば のろいをかけることが完成するという。具体と抽象との取りちがえ およびその抽象の優位によって 人間までもその頭の中で 逆立ちするかのように 転倒するようになるという。

つまり とりちがえや転倒は 逆に正解と正立像になる。

  • 生物としての犠牲身体でなく モノないし概念としての犠牲(つまり貨幣)であるから それによる呪いは かけられても そしてそのことが全般的な現象となったとしても むしろそのことのほうが 人間にとってあたかも有効ないし妥当であり 正解だと見なされるようになると。

このとき 貨幣は おのれ自身の歴史を消去することになる。

  • 犠牲身体ののろいがかかったこと――すなわち実際には犠牲身体とのかかわりあいで それを見つめる人びとのそれぞれの自己意識いかん――の妥当性・つまりは じっさいにはその無効の有力性・さらにその当事者としての心理 これを完成させたなら のろいをかける者は みづからを消去しても 安泰だということになるのだと。
  • 第三項化という暴力をおこなったことの心理上の経験思考によるつぐない・または逆につぐないへの無視 これらいづれの場合にも 貨幣のほうは あたかも呪いをかけつつながら みづからに被った歴史をも消去すると。

媒介する運動(呪いのこと――今村でもなく全体の引用者)は 運動そのものの結果においては消失してしまって 何の痕跡も残さない。(マルクス

第三項にまつわる社会関係内在的な暴力性(犠牲として除外したこと――引用者)もまた形態的には消失する。社会関係は おのれを生みだした創成暴力(貨幣の第三項化=排除――引用者)を消去することによって 表舞台での安定化を図る。

  • ということは 貨幣以外の商品またはその商品を扱う市民社会の人びと一般も 貨幣の自己消去に加担するのだということにもなる。
  • あとで論じたいのは この論点である。すなわち 貨幣みづからが自己を消去するとか また あとに残った商品体系がやはりみづからの貨幣排除という暴力を消去するとか あるいは社会関係としての人間が そのことを是認し それによってみづからの安定化を図るとか こういった事柄の内容いかんである。

しかし 現実には 第三項化=暴力は舞台の表面から消え去っても 社会の深層には実在する。

  • どういうことか?

今や 最深部にある第三項は 貨幣ではなく 社会的労働(価値一般)である。こうして フェティシズムは完成する。
・・・

  • もう少し引用しておこう。次の引用部分については 全体と合わせて その引用のあとに議論する。

起源(暴力)の隠蔽――これは社会関係が現実的に行なう消去メカニズムの結果である。反対に 結果に示される消去にまどわされて あたかも社会関係の中には暴力が存在しないと判断する場合には それは 日常生活を営む人々が観念形態のなかでおこなうイデオロギー的消去とともに生成し この神話は日常的経済行動の現実的モメントになる。経済神話学としての経済学批判は 暴力をめうぐるレアールな消去とイデアールな消去とを同時に解剖すなくてはならない。マルクスが商品形態論でやったのは まさにそのことである。マルクスフェティシズムに言及したのは 必然であった。
暴力のオントロギー pp.80−81)

この議論について次のようなことが言えるのではないだろうか。

  1. 近代的な貨幣経済の社会にあっては まさしく律法規範の呪いから わたしたちは自由になった。たとえば《緋文字》の女ヘスタをつくりだすような 経験思考の有力に陥ったところの・すなわち経験欲望そのものとしての宗教的・道徳的な規範 これの呪い(わたしたちの側の自己意識)から 自由になった。なりつつある。まず このこと。《呪術からの解放》?
  2. 〔ちなみに ユダヤイズムあるいはイスラームにあっては この《律法の規範性・その現実の効力》はいかが あいなっているのだろうか。気になるところである。――正当にも依然として強いのか。それとも 日本社会での表と裏 建て前と本音のごとく 使い分けされているのか。〕
  • 裏返していえば 宗教道徳のおきてをめぐる経験欲望(承認欲望・模倣欲望としても 今村は論じている)から自由になったと同時に この経験欲望は 人間としての犠牲ではないところの第三項たる貨幣からの呪いに 新たなかたちで 或る意味で依然として とりつかれた恰好になっているのだと。
  • またこのことは 貨幣や資本をめぐる人間相互の承認や模倣の欲望が 非第三項としての人間(社会関係)じたいを 或る意味で 犠牲にまつりあげているのだと。創成暴力に対する逆の創成暴力のようにしてであり つまりかんたんには そこで人間が 互いに互いを除外しつつあるのだと。
  • すなわち その経過としては 信仰領域を 経験思考によって 概念の形態ないし観念の体系に形作り 経験領域へ引きずり出してくるように まず なった。つまり信仰の対象を 神なら神として思考における宗教的な意識と観念・またその規範としてしまっているという情況を 思考によって捉えて はっきり自覚するようになった。そのときには もはや供犠における人間なる犠牲を止めるようになっており 従って この《宗教》の呪いから解放されるようになってくるとき おそらく犠牲信仰・宗教儀礼は 信仰領域の愛の擬制であると自覚したのだとも思われる。
  • これは 単なる推測にすぎなくてもよいと思われる。そこへ 新たな犠牲者であるかどうかを別としても 貨幣の第三項化とその日常全般化が始まり やがてこの社会は 一般に規範自由となっていく。貨幣形式による社会関係が 規範自由なのである。
  • 宗教規範からの自由は 信仰の愛への自由。または自由意志の実践の全くの自由へ突き進んだのかも知れない。従ってこの限りでいえば 一方で 信仰はもはや自信をもって 経験思考にすべてをゆづってよいということになったかも知れないと同時に 他方で 経験的な実情としては 信仰領域をもはやまったく省みなくなったということであるかも知れない。
  • 後者が優勢で有力になった場合には 貨幣(またはその経済神話)が 人間の欲望(それとしての自由意志)のすべてだと 見なすようになったと言えるのかも知れない。通俗的に 人間は色と金というから 色もあるのかも知れないが この色欲とて 日常全般化した経済神話の中で その金の欲望のほうに取り込まれつつ――または金の欲望を誘い出しつつ 一体となって―― やがて現象するようになったのだと。人間を直接 犠牲にすることはやめたが それとともに 信仰領域をも捨てた。
  • すなわち自由意志についても 信仰領域における基本原則(つまりまた愛)のことは 抜け落ち その自由意志は 経験思考と経験欲望一般に対してのみ はたらくと見なされるようになったのだと。
  • もちろん一般化して言っているのであるが 以上のことがけっきょく 貨幣の自己消去だとか 人間みづからの手になる創成暴力の消去だとかという形で 語られる内容だと考えるのである。
  • 逆に言って 《現実には 第三項化=暴力は舞台の表面から消え去っても 社会の深層には実在する》というのは 必ずしもその《創成暴力》が実在するのではなく その暴力を創成するときの取りちがえが あとあとまで尾を引いているということかと思われる。つまり 信仰領域をすべて取り払ってよいと考え まったく経験思考の領域に取って代えたことだと考えられる。これだとすれば あたかも自らに呪いをかけたかのようにして あとあとまで尾を引くと思われる。
  • あるいははっきり 創成暴力が実在するとするなら 人間(社会関係)がみづからに・つまりその信仰領域=すなわち自己の存在じたいに加えた・そのような暴力のことだと考えられる。
  • 《今や最深部にある第三項は 貨幣ではなく 社会的労働(価値一般)である。こうしてフェティシズムは完成する》というのは そのままそのように思われる。《価値一般》(これは原文での注釈である)をもって経験欲望の体系し それが人間存在(社会関係)のすべての世界であると考えたのは フェティシズムである。あたかも信仰における愛の推進力であると見なしてのように その呪物を 経験思考によって 擬制的な信仰形態とする。すなわち 貨幣の呪いをみづからが みづからにかける人間の自己自身の呪いであり――経験思考の意識と観念とその思い込みであり――イデオロギーとしてのそういう信念でさえあると考えられ 経済神話学にほかならないと思われるから。
  • ただし すべては事実問題としては 主体たるわたしたちの それぞれ自由意志によって おこなわれている。信仰領域は想定であるから 経済神話学も それについてわたしたちは無効だと主張する意志を保持しつつも すべては わたしたちがみづからの愛のもとに 行動している。そのぶんでは これまで述べてきたことも むしろあくまで妥当性の領域での議論であると言わなければならないかも知れない。具体一般的には 経験欲望に関して どこまでが有効な愛にもとづき どこからが愛でないのか かんたんに決めることも難しい。たとえば 愛ゆえに 貨幣経済の中で仕事に勤勉であるという部分も あるからである。あるいは 生活ゆえに 貨幣の呪い(そういう自己意識)に甘んじ それを身にかぶらなければならないこともある。
  • だとすれば ひるがえって またわたしたちは この経験欲望が全面的に有力となった社会の中でも――近代以降は 宗教の儀礼と規範的な意識との呪いから 解放されるとともに―― むしろ微力ではあるが みづからの応用原則としての愛を それこそ自由に 発揮しうる環境が出来上がったとも 考えるのである。
  • 自由意志は 経験欲望にのみかかずらうことも自由であり 信仰領域を直接 出さずに そのみづからの信仰にもとづきいて生きることも まったく自由となったとさえ言いうる。もしこうだとすれば 信仰の基本原則は その有効性についてもはやほとんど何も詮索しないで活動する中に いよいよ自由でまた確かなものになりつつあるとも 考えられる。
  • いづれにしても 有効性は 無力の有効である。宗教規範の有力な情況においてよりも それに代わってのように 貨幣ないし通約概念としての価値一般が有力となった情況においてのほうが 《無力の有効》が より一層自由に実践されうるようになっと言いうるかも知れない。


以上のような側面とその見方も――ジラールに加担するためではなく――提出できるのではないかと考えられる。《近代法体系の制度化にめくらまされて》のことではないことを願うものである。
《宗教意識の神は死んだ》という情況こそ 信仰領域の基本原則が より一層自由に省みられうるという一面。つまりそれは――こんどこそ――もはや信仰には 社会一般の交通過程の中で 何も触れないで 済ましうるということだと考えられる。信仰が生きるために そうするということである。そうすることができるようになったという情況である。そのようにして 妥当性の領域へ踏み出す。

§37

まとめと今ひとつの蛇足として。――
もはや信仰領域は経験思考にもとづく妥当性の領域へすべてを任せたのであるから このことによって 信仰の基本原則としての初めの想定は生きると思われる。背景にしりぞくことによって 生きると思われる。つまり わざわざ生きると言わないでも生きるというあたらしい情況である。もしそういうかたちで論証ができたとすれば さいわいである。
蛇足としては 経験思考にも 妥当性の原則といったことがあるかと思われることである。
しつこいけれども 信仰の基本原則が痕跡を残すとすれば 妥当性の領域にも ある種の原則がとらえられると思われる。この点は 最後に触れておくべきだと考える。
もはやかんたんに言って 妥当性の原則とは 表現の自由の原則である。
経験思考としての内容もその表現内容も すべて自由であり――すべて自由ということは すべてが必要・有益だとは限らないが―― そしてその表現内容にかんする答責性が伴なわれている。
しかも実際にも わたしたちは現代社会において あの近代法体系ではないが この表現の自由およびその責任についても 一定の了解を共通に持っている。この共同主観を 法律として取り決めあい これにもとづいく共同自治をつくっている。しかも 法律は 補助手段であるだろう。法律条文の表現内容じたいについても わたしたちは自由につねに その妥当性を問い求めていく。
妥当性の領域に 応用原則としての愛が――おのおのの主観において――なお痕跡を残すようにして 妥当性の原則をきづいているとすれば それは 経験思考の表現に自己矛盾としてのあやまちがあったなら これをあらためるという責任 これを なお無力の有効のうちに・かつ自由に 促すということ これのみであろう。いわゆる試行錯誤をとおしての 経験合理性の互いの追求にほかならない。いうとすれば これが 妥当性の原則である。
この点について注意すべきことがあるとすれば それは 表現のあやまちは その表現者個人の問題だということである。愛は 関係であるゆえ その意味で社会の問題であることに変わりはないが それは 表現行為の内容にかんして不合理を犯した表現者個人の問題なのである。いうとすれば これが 愛である。
想定した基本原則にあえて触れるとすれば 表現主体は 関係存在であると同時に 独立存在であるという内容事項にもとづくと思われる。表現のあやまちに関して その中には 法治社会における法律上の処置が 別にあるとも考えられるが それは すでに触れたように 補助手段なのであろう。法律条文の表現内容じたいについても さらに・つねに その妥当性を求めていくことも すでに見た。
これで信仰主体は みづからの信仰領域をすべて内面におさめてのように 一個の表現主体となって現われ 妥当性の領域に踊り出る。妥当性の相互の自由な追求が 事項ごとに段階ごとに一定の結論を出しつつ しかも持続的に過程されていく。このことは とりもなおさず 無力のうちにゆうこうな愛の持続過程のことにほかならないというわけである。
貨幣や資本の有力に対しても この妥当性の原則を どこまでも推し進めていく過程で 一定の解決が
 得られていくと思われる。あるいはむしろ わづかに妥当性の原則を過程的に実現することじたいが 人間と社会にとってその一つの基本的な解決であるということかも知れない。経験領域には 第三項排除効果がつきまとうものであるとしたならばである。
わたしは 経験思考には 抽象的な概念がつきものであり そのような通約概念が社会経験においてなくなるとは思わないが この通約概念の第三項化・としてそれの除外とともに その創成暴力の自己意識としての呪いによって 同時にこの第三項を社会関係の内に摂り込むといった第三項排除効果 これは 人間社会において 歴史的に なしで済ますということが 時として実現するとは 思っているものである。
第三項を作り出しそれを第三項とすること そのような排除たる創成暴力とは その第三項なる対象を気にするということだと思われる。気にしていたから第三項化をおこなったのだと思われる。もはや観念のみが敵だとすれば こう言ってよいと思われる。いわゆる社会差別一般のことだと言ってよいと思われる。
これに対して 直接 有力となってのように 平等を求めるというのでも必ずしもなく 差別・被差別・そして逆差別といった第三項化とその暴力が 《経験思考において気になる》といった表現行為において生成したときのことを 妥当性の原則のもとに とらえなおすべきだと考える。
暴力の有力を取り締まるというのでも必ずしもなく――つまり 気にしなければよいではないかといった解決方法ではなく―― 暴力的な意思(欲望)のもとに表現されたその行為の内容 そこに 不合理があれば これを問い質すということ このことが そして言うとすればこれのみが 妥当性の原則の実践であると考えるのである。
或る意味で 単純な日常性の世界に 戻って来たと考えられる。この最後の論点では 今村理論のその内容にかんして もはや留保したままに従うが 《信じることと考えること》という主題のもとでは この社会日常の経験領域に帰って来たという一面をもって すでに議論はおしまいにしてよいと考えるのである。

(完)