caguirofie

哲学いろいろ

 関根正雄によると

創造者なる神という思想はやはりダビデ・ソロモン時代にエール宗教から受容されたものと我々は想定する。

 ・・・『創世記』一四章に《天地創造者なる至高き神(エール・エルヨーン)》についてサレム――エルサレムと比定するのが自然である――の祭司王 メルキ・ツェデクの口からはっきり語られている(18−20節)。エール・エルヨーンがエルサレムパンテオン最高神で その神が何よりも《天地の創造者》と呼ばれている。エールの神と創造との密接な関係は・・・『詩編』第一九編で

   もろもろの天は神の栄光をあらわし

   大空はそのみ手のわざを示す

と創造世界の讃美を歌っている際 《神の栄光》の《神》が通常のヘブライ語《エローヒーム》ではなく《エール》を用いていることにも示されている。《知恵における創造の神学》が知恵の問題の中心になるのは当然である。

 〔関根正雄:『古代イスラエルの思想』2004(原本は1982年刊)pp.230−231〕

 もう一箇所 引いておきます。

エールは都市国家ウガリットの場合と違い パレスチナでは主として半遊牧民 小農の神であった と考えたい。族長たちは半遊牧民の生活から次第に小農の生活に移り 族長の神とエールとの合体が起こったらしい。それに対しバールは農地をその手中に占有した都市生活者や大農の神で 族長とは全体として無縁であり 従って『創世記』には出てこいないのだと 解される。

(同上 p.161)

言霊の思想についてうかがいます。

以前の質問において 次のような仮説を捉えました。それの吟味をしたいので お尋ねします。

 第一次に《こと=事》に感応して《ことだま=事霊》を見止めるがごとく思い描き 同時に《ことだま=言霊》としても捉えた。そのあと 第二次に 事の端⇒言の葉⇒言葉そのものに言霊があると見なすようになった。とするなら 《言葉を発すると そのまま それの表わす中身の事が起こる》という《言霊》の思想は 人為的に後で出来たこの第二次のほうではないだろうかと。→《Qわれわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか 》No.11補足欄など。

 ところが この仮説をくつがえす次のような説を見かけました。両者を吟味しつつ ご見解をおしえてください。

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 我々は祝福というと おそらくすぐ神に祝福されるというふうに考える。《創世記》一二章の一節から三節でもそう書いてある。けれどももっと遡って旧約の中で祝福とか呪いという問題を探ってみると 神との関係が初めにはない。・・・

 というのは 神との結びつきは旧約の伝承を探ると二次的なのである(ショットロフ)。要するに〔第一次のは〕言葉のもつそれ自身の祝福の力および呪いの力である。これは宗教的にいえばいわゆる呪術の段階である。ところが旧約ではきわめてすみやかに神とのかかわりをもたせさられて《あなたは祝福されている》《あなたは呪われている》という言葉が神との関係で用いられはじめており・・・(以下省略)。

 (関根正雄:『古代イスラエルの思想』2004p.63〔初出=1982〕)

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 ★ ●神との関係が初めにはない―→契約がとり交わされてないってこと? / 信頼関係で成り立っていたってことなのかな?

 ☆ そのあとにあるように つまり

 ▼ これは宗教的にいえばいわゆる呪術の段階である。

 ☆ というように まったく理屈抜きで 何でもかんでも そこに超自然的な力が宿るとみれば その力もしくはその力を含む領域へと 体も魂も 乗り移って行くという知性以前の心の動きだと まづは 思います。

 その世界と交通しうる人間の言うことなら 確かで間違いのないことだと 思ってしまう原始心性だと思います。さらには そういうかたちで 社会としては 共同自治がいとなまれていたという情況ではないでしょうか。

 ということは その超自然の領域に 事霊=言霊を 見ようとしていたと言えるのかも知れないのかなぁ。

 でも たぶん このようなアニミスムおよびシャーマニスムであるとすれば もう 一応としては その個人としての心性が そして集団としての心理的な交通情況が 固定してしまうでしょうから そしてそうであるからこそ 《神との関係が初めにはない》という情態だと思われるので 事霊=言霊のやはり以前の状態にあるように考えられます。つまり 第一次のことだまよりも 以前であるという意味です。逆に そうであっても 第一次のことだまより以前の段階だということで それが むしろ取り上げられて 第一次のことだまの段階を通り越して 第二次のコトダマ(言葉霊)の段階では 或る意味で 復活しているのかも知れません。

 次のような整理のもとにです。

 −1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム

 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り

 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 

     社会力学上(政治的に) 寄せる。

 このとき 《ことだま》は 《イリ》知性の問題であり その情況でこそ 第一次だとわたしは思っていたのですが こうなると 《ヨリ》においても すでに現われていたと見なしうるとするなら 《ヨセ》にとっても 人間本来の心性かつ知性の基礎であると言い張るよすがとなるかも知れません。統治者のホンネとしては そういう学説を望むのかも知れません。

 解いてください。