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哲学いろいろ

《ことだま》は 言霊よりも事霊としての用法が先ではないか?

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9919885.html

1. 初めに(原初的に) 《こと=事》に感応して 《ことだま=事霊》
を心に見止めるがごとく思い描き ほとんど同時に《ことだま=言霊》と
しても捉えた。かも知れない。

2. コトが 事と言とで同時であったとしても・そうだとしても 問題
は そのあと第二次に 事の端 ⇒ 言の葉 ⇒ 言葉そのものに《言霊》があ
ると見なすようになった。のではないか?

3. 《言葉を発すると そのまま それの表わす中身の事が起こる》と
いう《言霊》の思想は 人為的にナラハシとして後で出来たこの第二次の
ほうを言うのではないだろうか。

4. まだ根拠も論拠も乏しい状態にあり 資料収集の段階でさえあるか
も知れないのですが ひょっとしたら 一点突破するかのごとくよきヒラ
メキが得られるかも知れない。みなさんのお知恵を拝借です。


5. 問い求めのねらいは 言霊の思想(ナラハシ)が 例の差別表現と
いう社会現象とかかわっているのではないかという見方にあります。

6. もし言葉の霊力そのものは 人びとの社会的な慣習として 自然の
生成によるのではなく 第二次の人工的な展開であると捉えられ得たなら 
世界は・話は 変わって来る。

7. 人間の生まれつきそなわった自然本性には 基本的に言って 言葉
が その内容としての事を起こすといったチカラはそなわっていない。言
いかえると 言霊の思想は われわれの自然本性がそれを支えているもの
ではないと。




8. なお・ちなみに この仮説をくつがえす次のような説を見かけまし
た。不利になりますが 掲げます。

▲ (関根正雄:古代イスラエルにおける《言霊(?)》 〜〜〜〜〜〜
9. 我々は祝福というと おそらくすぐ神に祝福されるというふうに考
える。《創世記》一二章の一節から三節でもそう書いてある。

10. けれどももっと遡って旧約の中で祝福とか呪いという問題を探っ
てみると 神との関係が初めにはない。・・・

11. というのは 神との結びつきは旧約の伝承を探ると二次的なので
ある(ショットロフ)。

12. 要するに〔第一次のは〕言葉のもつそれ自身の祝福の力および呪
いの力である。これは宗教的にいえばいわゆる呪術の段階である。

13. ところが旧約ではきわめてすみやかに神とのかかわりをもたせら
れて 《あなたは祝福されている》《あなたは呪われている》という言葉
が神との関係で用いられはじめており・・・(以下省略)。
 (関根正雄:『古代イスラエルの思想』2004〔初出=1982〕p.63 )
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14. 質問をかかげるわれわれは この(12)の命題のその以前に
(1)および(2)の歴史を仮説しています。

おぎない

◇ 概念、言葉、イデアが事物に先行しているということになるの
ではないですか。
☆ そうであり得ると考えます。

この見方をさらに掘り下げたい。

空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》
という《言》で受けた。

この原初のコトダマは その事たる霊的現象を事霊と捉え その内
に言葉としての言霊が潜む。

雷つまり神鳴りは 事であり 神というからにはその《事》に《い
か(厳)つ(の)ち(霊)》という言霊が宿ると捉えられた。

雷光は 稲の生育に 霊の息吹きを吹きかけるという観想によって 
《いなつるび(稲と雷電との交接)》と言い あるいは《いなづま
(稲妻もしくは稲夫)》と表現した。生育というよりは 稲が孕む
ということのようです。

つまり 初めに事霊=言霊としてのコトダマが 初めにあって――
そのあと《言葉霊》が分立するかのように一般に言霊として持たれ
るに到った。

稲光と口に言い出すことによってその言葉の霊が 稲に実を成らせ
る。
 
《のりと・のろひ・まじなひ・言祝ぎ》は 第一次の《事霊=言霊》
の現象を再現しようという意志を持ったとき 第二次的な《言霊》
とし働くと見るに到った。

おぎない・2

古代イスラエルの思想』から さらに抜き書きします。
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 《バールーク・アッター》の《バールーク》というのは動詞の受身の分詞で 《バーラク》は《祝福する》であるから 《君は(=アッター)祝福されている》という事実の確認なのであるが それを《〔祝福〕されよ》と理解したら もうすでに二次的段階で受け取っているのである。
 古代的に考えれば 《バールーク・アッター》という言葉を語れば 言葉自身がすごい力をもってその相手に働きかけていくわけである。遊牧的社会において《バールーク・アッター》は相互の挨拶に用いられ 共同体の中に霊的力が強く働くことを求めたものと考えられる。
 (関根正雄:古代イスラエルの思想 pp.63−64)
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 ☆ すなわち


 第一次:バールーク・アッター(受身形):《君は祝福されている》
 第二次:   〃        (命令形):《君は祝福されよ》

 
というかたちで 第二次段階としては 《祝福されよ》というからには 《何かによって》が予定されている。つまりは 《神によって》というふうに《神》がかかわって来ているということのようです。


 第一次では 《祝福されている》というのは その言葉じたいにおいて霊的な力が働くということのようなのです。
 だとすると その説での第一次では あたかも 人は その知性がまだ眠っていて その言語行為そのものに寄り憑いて行っていると わたしには映ります。だとすると それは 原始心性であると思われます。

 もし強いて わたしの説に水を引いて来て 解釈するなら そのように歴史知性の以前である原始心性においてにせよ その言語行為が 《事》であると同時に《言》であるという事態に注目することができます。《言》および《事》に 霊的な力が働くと捉えるなら なるほど 第一次の《ことだま》だと見なせるかも知れません。


 ただ やはり 矛盾が残ると思われるのは 《言葉じたいに魂が宿る》とすれば 言葉を発することで そのことだまが働くというように捉えているわけです。これは わたしの見方では 後天的な人為的な第二次のことだまなのです。初めの第一次の《ことだま(事霊=言霊)》の表わす事態を 言葉の発出をつうじて 再現させるように願うという人間の思い或いは思惑があると捉えて 第二次的に出来た習慣なのではないかと見たのでした。