caguirofie

哲学いろいろ

 《全体の善のために》

 ☆ このことで コメントしたのは スミスの次の考え方に基づいたものです。

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 生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは 自分自身の利益のためなのである。

 だが こうすることによって かれは 他の多くの場合と同じく この場合にも 見えざる手に導かれて 自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは その社会にとって かれがこれを意図していた場合に比べて かならずしも悪いことではない。

 社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも 自分自身の利益を追求するほうが はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が 社会の福祉を真に増進したというような話は いまだかつて聞いたことがない。(国富論 第四篇第二章)

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 ☆ どちらか一方に片寄るのも いけないのでしょう。もともと スミスも 《利己心と同感( sympathy )》を掲げたそうです。後者が基本のようです。つまり 個人の利己心を抑えるのではなく むしろ発揮し合いつつ しかも 言わば社会にあたかも《ことだま》の相い通じるがごとく また情念( -pathy )をさえ同じくする( sym- )がごとく 互いにその《文明》のあり方について 同感し合うところを目指す。 そして このとき 果たして 《ことだま》とは それがあるとしたら どういう起源のもとに 社会的な現実の一部となっているのか。おしえてほしーーい。

 ★ 【QNo.3193243 もしもこの世から〔お金が無くなったら〕。。。 】

 ☆ わたしは いまも インタムライスムを提唱しています。国家を超えて ムラ(市町村)どうしが 地球規模で 相互にあらゆる分野で提携していくという思想です。
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 たぶん ある日 いくぶんSF的に 金融の一切のシステムが消えたとき、 / スーパーの店員一人にさえ、たぶん彼がいままで学習したことのない / 尊厳の自立や 魂の自立が 必要となるのであって / われさきに詰めかけてキャベツを持っていこうとする人間を / ただ持って行かせてはならない と彼は気づかねばならない。(ANo.12)

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 ☆ これをめぐってなら 《みな誰でも 〈キャベツを持っていけ〉という》販売(?)のあり方を空想します。むろん生産も流通も すべて お金無しの状態です。つまり スミスの《利己心と同感》つまり 《ことだま資本主義》です。すべてにわたって 自由な主観の自由な判断に基づくという《文明論の概略》です。(誰かは 《無秩序の秩序 / 無法の法》だとか言っていました。nさん おーい!)。

 しかしながら 《ことだま》の起源が分からない。

 ★ 福沢諭吉の《脱亜入欧》等々

 ☆ 専門的な議論ではありませんが 総じて 《和魂洋才》でやって来たのですから あとは どこに重点を置くかでいろんな考えと施策があったと考えます。

 かえって少し冷たい言い方になるかも分かりませんが 政策論に入れば その時々において どういう事項を先に取り扱うかは 人命や人権に損害を与えるのでなければ みな相対的なものだと見るべきではないでしょうか。★《西洋諸国との格差をいち早く肌で感じていた諭吉っちゃんだけに》。

 スミスも もろに現象的なことを

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 われわれが自分たちの食事をとるのは 肉屋や酒屋やパン屋の博愛心( benevolence )によ〔って 肉や酒やパンを分け与えられて と〕るのではなく かれら自身の利害にたいするかれらの関心に〔訴えて 交易し購買することに〕よる。(国富論 1・2)

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 ☆ というように 言ったりするので 諭吉も

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 「西洋人の心の誠実にして、日本人の心の不誠実なるにあらず。西洋人は商売を広くして永遠の大利を得んと欲する者にて、取引を誠実にせざれば、後日の差支と為りて、己が利潤の路を塞ぐの恐あるが故に、止むを得ずして不正を働かざるのみ。心の中より出たる誠実にあらず、勘定ずくの誠なり。」(『概略』4 一三二)

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 ☆ となじったりする。とは言うものの 結局――つまり局面を結ぶに際しては―― 次のように スミスと同じように 《利己心と同感》の命題を出してくる。

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 「利を争うは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり。今、我日本は外国人と利を争うて理を闘するの時なり。・・・・けだしその気象なく またその勇力なきは、天然の欠典にあらず、習慣に由て失うたるものなれば、これを快復するの法もまた習慣に由らざれば叶うべからず。習慣を変ずること大切なりというべし。」(4 八○−八一)

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 ☆ この《習慣》あるいは広く《文明》 これにかかわって では 果たして 《ことだま》は いかにして歴史上 現われたるや? 《言葉そのものに 霊的なちからがある》というのは 乱暴に言ってしまえば 《迷信》ではないのか?