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哲学いろいろ

言語と性差#2

(1) バイリングワリストになることでしょうね。
(2) 女性も 《ひと》――そこには 性は存在しない――としての存在に基礎をおくことでしょうね。


 (1)はともかく、(2)はどうでしょうね。本当でしょうか?
 基礎を置くという点については同意できるのですが、その基礎付けはいわば空論、決して実践できないのではないでしょうか。
 なぜなら言葉は語られるときに、必ず男女のどちらかに仕分けされるからです。言葉は一旦外へ出てしまうと、もう内へは戻れない。そうですよね? この問題について、もう少し考えてみます。いっしょに考えてみませんか?


 僕たちは、他者の理解と承認を得る為に「僕は――と考えます」「あたしは――と思います」というふうに自己主張したりします。正直に、そして善良さによって「私は――です」と断定したりもする。けれどその言葉の内容とは裏腹に、その表現には「主張」という下心が働いています。その下心が、いわば表現を「支配 している」。
 例えば、こういうことです。それは「僕は邪悪な人間です」と断言するとき、「僕」とい
うものが「自分の道徳性を過大評価するような非道徳的な人間ではない」というメッセージをも同時に発信しているということです。
 ある「こと」を言いながら、それをいう事によって初めて言える「別なこと(「こと」の否定形が多い)」をも語っているのです。前にも少し書きましたが、「語り」は常に一階述語論理ではなく、多層階の様相を伴って発信されます。ですから、同じ会話が巡り始めるときっとこう発言することになるのです。
 「要するに、何が言いたいのか?」と。

 ジャック・ラカンはこれを、子どものディスクールと名付けました。
 これをぶつけられると、大抵の大人は即答できません。仮に答えたとしても、その言葉を見返したときに「どこか言い足りなかった」「ちょっと言い過ぎたかな」「表現が適切ではなかった」など、過剰あるいは不足という、要するに一致に対する「不足」の印象を拭い去ることはできないでしょう。

 「私」というものを客観視するために外へ出てゆき、「私」に向き合うような分析的視座に立ち続ける限り、「私」は常に分裂し、「見る私」と「見られる私」の間に根源的な乖離を生み出し続ける。
 人間が自己意識を持つ生き物である限り、誰ひとりこの根源的乖離という抑圧からは、自由にはなれないでしょう。ヘーゲルに従えば「自己意識」だし、プラトンに言わせれば「洞窟の外」でしょうし、ずいぶん昔から、人間の抱えるこの悩みについては語られてきたわけで、これを現代風に言うならば、「主体」は統合失 調症の病態になることで初めて存在し始め、その病態に無い者は「主体」など存在しないわけです。
 それが人間だという事でしょうね。

 だから、彼らを見るときにはいつも、他人事ではないなと感じるのです。
 じゃあ、そういうお前は、どうしてそう平気でいられるのか? という事になるんでしょ
うが、その答えになるのが、標題の女性(僕はこれを男性の否定形として捉えますが)についての論考だと思っています。どうでしょう?
 「どうやって生きるか」そう問うことへの、あくまで実践レベルでの回答ですが、もう少
し文章を練ってみます。

  • (あ) 言葉と存在との関係や いかに?
  • (い) 存在は 男女両性に分かれる。ゆえに 男の話す言葉に対して 女は どういうかたちの言葉を話すことが のぞましいか。

こういった問題でしょうか?


まづ この問題提起にかんしまして 前回の文章をも思い起こしてみます。

★ (言語と性差#1) 言葉というのは、一度口にして語られてしまうと、語られていないときの状態には二度と戻れないものなのだということを。こういうご経験は、ないでしょうか。
☆ さっそく反論してみますと これは 基本的には 
○ 訂正し修正して さらに 語りつづけていけば よろしい。
☆ と考えます。それは おのが言動にかんして 索引をつけるなという意味ではありません。ぎゃくです。
したがって 索引を つねに あらたなものにして進んでいけばよいと考えますが どうでしょうか? たえず アップデートするということだと思います。

あるいは 意図や真意との過不足やズレ これに関しましては その乖離を問題にするよりも 一部分であっても 伝達され意味が通じたというその事実を――潜在可能性とともに―― 見るようにしていけば 少しづつ 主観の共同性を 相違の部分を残しつつも 築いていけるのではないでしょうか?
底抜けの楽観ですかね?

passcard さんは 考えすぎですよ!! ラカンが何を言っているのか 理解できるとおっしゃっているのでしょうか? クリステワ゛が いったい 何を考えているのか 分かって 実際の生活態度に生かせるということでしょうか? 
わたしは とてもとてもです。理解できないという能力の問題と それから 臨床の問題とがあるとは 思いますが それにしても 一般的な思想の問題としても 著書を出しているというわけでしょう? それなら ふつうに読んで 分かる・伝わるということが 大事ぢゃないですか。それを怠っているのではないですか? たとえば このふたりですけれど。

★  「私」というものを客観視するために外へ出てゆき、「私」に向き合うような分析的視座に立ち続ける限り、「私」は常に分裂し、「見る私」と「見られる私」の間に根源的な乖離を生み出し続ける。

☆ これはですね。これは 意志疎通というときの《意志・意図・伝達内容》を ほったらかしにして 《私》の問題を 出して来ている。こう わたしなどは 捉えます。こういうコミュニケーションといった情況にあっては 後者の《私》問題は 二の次です。二の次にしなければならないでしょう。
もしくは それこそ 必ずしも二の次ではなく その場で 同時にですが しかしながら あくまで その存在にとっては 基底における思惟としての問題です。意志表示としての むしろ 表面の発言のほうが・それが伝わるかどうかのほうが いちばんの重要事です。
 ですから そのコミュニケーションという関係性(交通関係)のほうこそが
★ 「私」は常に分裂し、「見る私」と「見られる私」の間に根源的な乖離を生み出し続ける。
☆ という《分析的視座》を包みこんでいて 《わたし》を掬っています。かろうじて
★ 主体 ないし 主体関係
☆ を救い出しています。


いや そうではなく 救いは 次にあるというのが ご主張でしょうか。
★ その答えになるのが、標題の女性(僕はこれを男性の否定形として捉えますが)についての論考だと思っています。どうでしょう?
☆ ここには 二点 取り上げるべき論点があるでしょうか。

  • (う) 女性を 男性の否定形として捉える視点。
  • (え) 女性についての論考が 主体を救っている。言いかえると それが 《わたし》を 自分にかんして分析的視座に立つことから まぬかれさせている。

☆ まづ (え)は けっきょく 性の違いを措いて捉えるなら 一般的な意志の伝達関係という場(間主観性の場)のことですから 同じ結論内容になると考えます。
(う)は どうか? これは 実際 どういうことか まだ よく 分かりません。飲みこめません。
極端な言い方では それは 旧い言い方であり 差別発言になってしまいますが 要するに
○ 女性は 男性の亜種である。男性という人類の亜種が 女性である。
☆ ということではないのですよね? ううーん。《男性の否定形》 どういうことでしょう? これは お訊きしてみないと よく分からないですね。


もう少し 前回から文章を拾ってみましょうか。
★ (言語と性差#1) さて、これと同じ視点を1.〔《男性が話す言葉》をめぐるとき〕の性差についても考えてみます。
☆ すなわち

 女性にとって、とくに知的な女性にとって、男性からの語りは、先に書いた「英語」と同じ抑圧を語り手に与えるのではないかと想像します。
 ふつうの方であれば、過敏になったりはしません。けれど、知的であればあるほど、そして人間の性差に関して無関心 を装えない人であるほど、この抑圧は圧倒的となるでしょう。

 彼女たちはきっと、こう思うのではないでしょうか。女性としての自分を語り始めたとたん、口から出た言葉はすべて、男性のものなのではないかと。彼女たちは、語り始めたとたんに、女性としての自らの言葉を失うのです。
 フェミニズムには明るくないのですが、フェミニストたちの語りには、常にこの陰があるような気がします。

☆ これも すでに述べましたとおり 片や 表面での《意志伝達》という側面と その基底における《わたし》ないし《存在》のあり方という側面とに分かれると思います。
女性にとって この二層の構造としては 具体的には 基底層において 生きる形式として《女か男か》といった差異の問題なのでしょうか?
ひとつには ここでは むしろ 表面での問題点のほうが 重要であるということ。これが なお 有効だと思います。
そうして いま 推測で ものを言いますが 《女か男か》という存在関係のあり方の問題は おそらく 基底層と表層との中間に位置しているのではないでしょうか? 
もしこのまま乱暴に結論づけてよいとなれば したがって そこには《性》は存在しない《ひと》としての存在が いまの基底層のことですから 女性であっても 男性と同じように 言語をめぐる習慣や習性に対処していける。のではないか。こう思うのですが どうでしょう?


一気に 駆け抜けて行きましたから 検討・吟味を わざと 残したかっこうです。