caguirofie

哲学いろいろ

#32

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十一章c 縄文人的知性 / 魔女の問題

遠藤周作の魔女論は 小説《悪霊の午後》などに明瞭である。これに対する批判は 《遠藤周作論ノート》で試みたが 遠藤が次のように言うときそれは 真である。

――それで私は英子さんはそのような潜在欲望を人の心に触発させる能力をもった女――これを学問的にはネクロフィラストと言うのですが――そんな女ではないかとあの時は考えたわけです。
遠藤周作悪霊の午後 〈渦〉)


悪霊の最大の詭計は悪霊などこの世に存在しないと人々に思わせることにあります。
(同上 〈慶子〉)

言いかえるとこの意味は あの生活原理を議論するとき――井戸端会議でよいのだが―― 縄文人的知性は ありもしない存在〔の視点〕によって人間の存在と社会と歴史を裁断するということです。弱きわれわれは なお前史に寄留している。スサノヲは 破廉恥なまでのおこないを侵した。わたしは この前史的人間と 男と女の関係においてわれわれは 一つの人格であると言った。縄文人的知性は ありもしない存在の像を盾にして しばしば道徳堅固な理想的な人間に見える。この《サタンは 

サタンは われらの道徳的欠点を指摘し 神に訴へる。併(しか)しキリストを信ずる者(スサノヲおよびクシナダヒメ)は己が義でなく キリストの義(愛の王国)によって神の前に立つのである〔から サタンの訴へは全くポイントを外れており 我らの立場はそれによって豪も影響されることはない。〕
矢内原忠雄キリスト者の信仰〈2〉無教会主義キリスト教論 (1982年) 〈サタン論〉1947)

そうして この問題は 中上健次の小説の主題と深くつながり 家持・オホクニヌシ・イザナキらの生活原理にかかわり われわれのごく身近で起こっていることであると知らなければいけない。

では〔この自然本性への〕甘えはどこにあらわれるか。――と犬養道子は書いている。
第一は 世界ひろしといえどもX国(それは 未開発国だ)をのぞき日本だけ採用している生理休暇なるものに。これを与えないと人権に抵触するみたいな大さわぎが起こりかねない。(いまは 生理休暇をとってスキーや水泳にゆく不届き者は勘定にいれぬことにする)。とくに与えぬのが男性管理者だと大へんなことになる。
私は生理日が女にとってつらいものでなどと言っているのではない。・・・
女の生理は 今にはじまったことではないのだから 女の就職がさかんになりはじめること すでに対策が考えられてのである。《がまんしましょう。終わるまでは》ではないのである。現代医学をとりいれれば 日進月歩のこんにち 生理休暇はいらない。おまけに病気でないと来ている。生理休暇が許されれば 病気と紙一重につながる頭痛や腰や足の痛みを持つ人にも当然 休暇は与えられねばならない。就職していればとれる《休暇》も家にいる主婦や母にはとれないという矛盾も出て来る。
初潮とそれにつづく不安定は時期には配慮が必要だが 就職年齢(及びそれ以後)になれば 馴れてしまう上に生理日の自分の体調も見当がついて来るのであって それをコントロールするのは自分ではなかろうか。生理こそ女のハンデキャップだという人もいる。限られた視野でそれだけ眺めればたしかにハンデキャップである。だ 女体機能とか人生全体とかから広く眺めればハンデキャップどころか 素晴らしい恩恵・天の配剤なのである。生理を持つ女性なしに人間社会は死にたえる――。
甘えの第二は 純粋に仕事上の注意を《叱られた》ととる傾向のつよさであり 冒頭の例(省略)のように《私だから》《女だから》と考えてしまうコンプレックスである。第三は《仕事をするから疲れる》と何かにつけてこぼす人の男よりはるかに多いことだ。疲れるのは当たりまえだ。だから労働と呼ぶ。疲れないていどの仕事は仕事にならない。疲れる仕事をするから 休日がいる。疲れるのがいやならさいしょから仕事をしないで サウナにでも毎日行ったらよろしい。
第四は《女だから》《結婚してやめる》という申出が ぎりぎりになってとかく提出されることだ。・・・
犬養道子男対女 (1980年) (中公文庫) 〈何からの解放か〉)

わたしは ここにある議論が 無条件に正しいものであるかどうか分からない。ただ言えることは わたしなりの解釈では 《女だから》の《から》つまり 自然本性じょうの《関係》が 《関係》というほどに 人びとのあいだで もっと自由に議論しあい 知恵を出して行くべきである。ということだ。このとき いわゆる――いわゆる――《女性解放》の理論や運動は(もちろん 排除すべきだというのではなく) たしかに社会的なごく普通の問題となるであろう。また ならなければならない。これを わたしとしては 魔女の問題と言ったわけだが それは なかなか《女性論》どころの話ではないのだ。しかる上に 《女性論の系譜》の研究成果は人がよく用いていくことが出来る。そうでない場合の女性解放の運動と理論は 《人間社会破壊論》というまでの催眠術にしか過ぎないものとして推移して行くであろう。

(つづく→2007-05-18 - caguirofie070518)