caguirofie

哲学いろいろ

#31

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十一章b 縄文人的知性 / 魔女の問題

わたしは ここで 引用魔となろう。次の文章は読んで理解に苦しむ。もしこの苦しみを 説き明かしてくれる誰かがいなければ それをわたしは 《した照る道に出で立つをとめの桃(百)の花》ではなく 《庭尓落 波太礼能未 遺在可母》と言わなければならない。しかしわたしは そんなことはよう言わない。

女性が論じられる場合 いつも男性の存在が意識されている。男性の性格と比較して女性の性格が考えられ 男性の生活との関連で女性の生活が問題とされる。つまり男性が基準となって女性が考察されるのである。――と水田珠枝は論じている――
考察されるだけではなく たとえば男性 MANという言葉が人間という意味でもあるように

  • いや 《男性》《をとこ》という言葉が 《人間》を意味したことは かつてない。――引用者。

実際に男性が人類の代表者となっているのである。男性が社会の中心であり 政治 経済 文化の担い手であり 女性はその脇役として存在するのであって こういう男女の関係を ある女性論は肯定し ある女性論は反撥し 否定する。
(水田珠枝:女性論の系譜 1・1 NHK大学講座テクスト 1981)

このあと続けて 《わたくしたちが女性論を語る時には 女性論の背後に横たわる男女のこの差別的関係にまづ目を向ける必要があるだろう》と述べられている。わたしには 《男女のこの――この――差別的関係》が何であるか 理解に苦しむのであるが 少々ひねくれた批判の目を向けようと思えば こうなる。
わたしはこのような文章は 交換経済主体としてであるにかかわらず 縄文人的魔女となって ただ自給自足的な自然本性の眠りへ誘い 現実の《男女の差別的関係》をまぎらすようにさせるものだとは よう言わないのであるが 上の《女性論の背後に横たわる男女のこの差別的関係》とは その前に触れられた《女性は 社会の中心であると見られる男性の脇役として存在する》ということであるのだろうか。《男性が基準となって女性が考察される》ことであるのだろうか。
けれども そのような事実をわざわざ言ったのは ほかならぬ筆者つまり水田珠枝じしんではないのか。そして たとい《いつも男性の存在が意識されていて 男性の生活と比較して女性の生活が問題とされる》としても そのような女性論が 《まづ男女の差別的関係に目を向けた》結果 語られたものでないとは 誰も言えない。
それでは 水田珠枝の言う《女性論の背後に横たわる男女のこの差別的関係》というのは 《女性が男性の脇役として存在するそういう男女の関係を あるいは肯定し あるいは反撥し否定する両様の女性論》のその背後にひそむ論理的な差別関係的意識のことであるのだろうか。
なるほど そうであるのかも知れない。だが このときにも それでは著者は どの立ち場にあると言うのだろう。《まづこの差別的関係に目を向け》た結果 どうだと言うのであろう。自身は 肯定するのか 反撥し否定するのか。それとも ほかの立ち場があるのか。
わたしはこの点 理解に苦しむ。と言っても わたしの理解力の行きつくところは それなりにあるのであって 著者は 何も立ち場としては言わないことによって 人びとを あの自然本性の眠りを愛してのようにそこへ 誘い込もうとしている。としか考えられない。微妙だが そうとしか読めない。わたしは このような議論を 《李(酢桃)の花》とは決してよう言わない。《男性を基準にして》のみ議論することは出来ない相談だから。
だがもし このような視点から《女性論の系譜》をいろいろと跡づけるのみであっては いま男性を基準として言うなら――あるいは男も女もそうでありうる人間を基準として言うと―― これを《人間社会破壊論》であると言ってはばからない。

〔わたしたちが女性論を語る時には 女性論の背後に横たわる男女のこの差別的関係にづ目を向ける必要があるだろう。〕
差別的関係がなぜ発生したのか。その関係は歴史の過程でどのようなかたちをとってあらわれてきたか 差別的関係はどうすれば克服できるのかが検討されなければならない。女性論がそれをどうみたかを知ることによって その女性論がもつ社会的意味をあきらかにすることができると同時に さまざまな女性論をつらぬく課題を把握することができる。
女性論の系譜をたどるには このような視点の設定が必要であろう。そしてこのような視点から女性論の系譜に目を向けるということは わたくしたち自身の女性論をもつことでもある。
(承前=水田珠枝:女性論の系譜 1・1 NHK大学講座テクスト 1981)

これに対しわたしたちの言うのは こうである。その時々の歴史の中で 女性論〔とその実践〕は 時に差別的とも言われうる男と女の関係から成る社会においてそれが持つ意味 これを自覚していようといまいと あるいは それらの歴史的視点をそれらが把握していようといまいと 現実の社会関係の中で生きたのである。その歴史的な視点は これを把握していなくとも すでにむしろこの視点をはたらかせてのように 現実に対処したのである。この視点は その《設定が必要》なのではなく またそれの自覚・それへの再到来が必要であるとしても その視点じたいの形象化が問題なのではない。
このとき 《このような視点から女性論の系譜に目を向けるということは〔有益であり〕 わたくしたち自身の女性論をもつことでもある》。このことは 真である。けれども このときの女性論は 女性論〔の系譜〕であることをただちに超えて 過去のそれらがそうしたのと同じく 具体的な問題に何の危険もなく立ち向かっているであろう。歴史的系譜を 著者は この実践の基礎資料として 研究し提出するのだと言うことは出来る。ただそれは この女性論の組み立てへと人びとを誘い渡すことを意味しない。人びとは 理論を継承発展させるのではなく それを完成させようというのでもなく あの愛の王国を歴史的に継ぐのであり これは 男と女の別を問わない。人は そこで或るあわれみの職務を引き受けるのである。著者はなにか このあわれみの職務など存在しないような――つまり呪術的生活の縄文人の――社会を歴史的に 今度は未来へ向けて 想定しているかのようである。しかしそれは 眠りであり 魔女の仕事でしかないとわれわれは考える。われわれは この縄文人的知性である魔女の仕事をよく用いていかなければならない。


   ***


縄文人的知性にかんしては こう言うことができる。何ごとも平たくし平たくさせ 平面的であって 停止しつつ(ということは 実際には動いているのだから 眠りこけつつ動き)生きるなら それによってあなたがたは 苦悩と不安がまぎれるであろうと言う そしてそのために 権威あるいは学識をひけらかすというやり方である。
この知性は みづからは実は 呪術的縄文人ではない。しかし みづから(身づから←身つから→身のから=身の族・輩・友柄)つまり仲間として 縄文人である。おのづから(己つ族) つまり《自然によって》 魔女であり呪術師である。

  • 魔女というのは 知性のあり方として 知性を眠りこませるそのはたらきをいう。
  • 家ガラ・腹カラ・人ガラ・国カラ・神(かむ)な(=の)ガラ・だカラ( because )・此処カラ( from )・おのつカラ(自然生成的に)。

この種のカラ(関係)は 他人を自分の知性とその管理下に誘い渡すことをむしろその存在理由としている。われわれは この前史的母斑を――母としての女の・あるいは男であってもその一面を―― 自分自身の力によっては止揚できないという無力 その弱さを誇らなければならない。言うなれば これが 神ながらの道だと思う。前史的母斑の愛の中から 後史の愛が 本史の愛によって起こされて 立ち上がるのである。
縄文人的知性は こういう論理で人を誘う。

プロレタリアートによるブルジョワ社会克服の必然性を マルクスはその疎外論で説明する。かれによれば

  • ほんとうに以下が マルクスの主張であったか疑問であるが。――引用者。

人間は自然に働きかけて生活資料を手に入れるとともに その行為を通して自分自身を変革していく。こうみれば 労働は人間の本質だということになる。
ところが資本主義社会では 労働の生産物は労働者の手からはなれ 他人の所有物となり そこから搾取 支配がうまれてくる。こうなると労働の生産物は人間が支配するものではなく 逆に人間を支配するものになってしまい 労働は人間にとって苦痛になる。こうした現象をかれは疎外とよび 資本主義社会では疎外が生産活動だけでなく それ以外の領域にも拡がっていくという。
男女の関係もそのひとつであって 生産活動が進行し 本来平等であるべき男女が支配服従の関係におかれ 愛情や性までが商品化されていく。
しかし資本主義社会は永遠のものではなく 無政府的生産 恐慌という内部矛盾をもっており そして資本主義を克服する主体となるのがプロレタリアートなのである。その克服を通じて人間は人間本来の姿を回復し 人間性を全面開花させることが可能となる。《経済学・哲学手稿》(1844年)でマルクスは 

人間の人間に対する直接的な 自然的な 必然的な関係は 男性の女性にたいする関係(――カラ――)である。・・・この関係のなかに 人間にとってどの程度まで人間の本性が自然になったか また自然が人間の本性になったかがあらわされ 観察できる事実にまで還元される。この関係から 人間の発展段階の総体を評価することができる。

といい また人間としての人間を前提とするならば 愛情は愛情とだけ 信頼は信頼とだけ交換される といっている。資本主義の止揚が 男女の平等を実現する方向なのである。
マルクスは 疎外論を軸とする史的唯物論を樹立して 人間解放の可能性と必然性とを説いた。女性への抑圧が女性の労働の搾取 所有からの排除というかたちをとってきたことをみれば 女性の解放をこの線に沿って考えることができるだろう。しかし性としての女性が差別され抑圧されてきたのは 生活資料の生産という活動=労働を通してだけでなく 生命の生産とそれにかかわる家族関係をとおしてであることはまえにのべた。マルクス疎外論には 生命の生産や家族をめぐる性差別の問題は はいっていないようである。
(水田珠枝:女性論の系譜 4・1)

縄文人の自給自足生活〔関係〕から 弥生キャピタリストの交換経済社会へ移って 〔余剰のそして基本的な生活資料の〕貸し借り関係が 総じて人間を圧倒して支配するようになった。この弥生キャピタリスムを克服したあかつきには 《愛情は愛情とだけ 信頼は信頼とだけ交換されると言っている》と言っているのである。
マルクスは ただ新しい方向を(または 既成のあのスサノヲの《歴史》を) その一性格として・特にその属性の側面を取り上げて 人びとにわかりやすいようにそう表現したまでである。そう言うぶんには 大伴家持の出発 つまりあの《安志比奇乃》とへりくだるまでに また《波太礼能未 遺在可母》と 現在地点をただしく捉えてのあの旅立ちを 片や旧い縄文へ逆行させることも 片や《朝己藝ゆく船人の歌の遥けき》かなたへと連れて行き幻想化させることも まぬかれているであろう。
しかし 《そう言っている》と言われたぶんには 家持のあるいはマルクスのあるいはプロレタリアートの現在地点は 中に浮いてしまうのである。《資本主義の止揚が 男女の平等を実現する方向なのである》 しかし 《マルクス疎外論には 性差別の問題は 入っていないようである》と これら二つの判断を同時に言える知性と理性は どういうものであるか 理解に苦しまなければならない。著者は 《人間の人間に対する直接的な 自然的な 必然的な関係は 男性の女性に対する関係である》という命題を どう理解しているのか。

マルクスは 主要目的を ブルジョワ社会の仮面をはぎとり ブルジョワ的な《男性の女性に対する関係》の欺瞞性をあばくことにおいていたために それに未来の共産社会の理想的な《男性の女性に対する関係》を対置したのであって これと反対の《女性の男性に対する関係》を主要な問題にしなかったのである。
(水田珠枝:女性解放思想の歩み (1973年) (岩波新書) 5)

と言葉のすり替えによって 弁明がなされているが――なぜなら あの《歴史主体の視点》を自己のものとしたなら そこには性は存在しないから この視点から女性論を持とうと男性論を持とうと どちらの性から他方の性への関係を言うか これを問題にするのは こっけいである―― これによって言えることは 要するに著者は みづからは 歴史を開始していないということだ。
歴史していないと言っても 人はみな 縄文人的生活から出たものであるから すべての文化と構造的な人間の歴史を そのような古い或る平面へと均してしまい この縄文人の眠りが人びとの幸せなのですよと言ったことになる。縄文人的知性は 自然によって愛によって 魔女となり すべてをこの自然本性の平面へ眠り込ませる力である。マルクスが 《人間にとってどの程度まで人間の本性が自然となったか また自然が人間の本性となったか》と言うとき それは 交換経済主体としての人間の 前進する過程であって 明らかに眠りとは反対の方向なのである。
わたしには 著作にあらわれる限りの水田珠枝さんは あの家持が国家の時代にあってその段階にいる自己に甘んじた歴史(そのような一面の色彩)をもまだ通過していないように思われる。けれども家持は 吾が園の李の花か庭に降る《はだれのいまだ残りたるかも》もうたって たしかに男の女に対する関係を 人間としての人間に立って 過程させてのである。

  • ちなみに この歌で第二句の《李の花か》は その他の第一・第三ないし第五句の全体に挿入されて全体にかかっていると見るべきであろう。《吾が園の庭に降るはだれの未だ残りたるかも》 それは 《李の花か》と詠じたのである。これは 妻を迎えたあとの日々の感懐であるから 男の女に対する関係を言っている。日本人は あるいは日本語の性格は 少なくともこの当時まだ《愛情は愛情とだけ 信頼は信頼とのみ交換される》などという分析的な認識と表現 少なくとも表現は 採らなかったという一歴史に過ぎない。家持がマルクスと同じ後史の地点に立たなかったとは言えないであろう。


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(つづく→2007-05-17 - caguirofie070517)