caguirofie

哲学いろいろ

#18

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章二 《光源氏‐夕顔》対関係―― 一夫一婦という対関係理念――

煩をいとわないならば われわれは 任意に 市民社会学者としてのマルクスあるいはエンゲルスを引き合いに出すことが出来る。

人間が自然成長的な社会のうちに存在するかぎり

  • われわれは つねに そうであると見るのだが――引用者。(以下同じ)

したがって特殊利益(スサノヲ圏)と共通利害(アマテラス圏)との分裂が存在するかぎり

  • だから われわれは 両圏の分離連関は どんな社会が来ても 不可避だと言うのであるが

したがってまた活動が自由意志的にではなく自然成長的に分割されているかぎり

  • だからわれわれは 分離・逆立連関のその動態性を引き出そうとこそするのであるが

人間自身の行為はかれにとって一つのよそよそしい対立的な力となり そして かれがこれを支配するのではなく これがかれを抑圧するということ・・・。
(K・マルクス F・エンゲルスドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫) 〈フォイエルバッハ A イデオロギー一般 ことにドイツの 〔1〕歴史 ――上は古在由重訳)

だから むしろ《共通利害》を一身に体した《一つのよそよそしい対立的な力》 つまり表現の上では 観念の資本主体ナルキッサの社会的解放が 市民社会学の原点なのである。そのように捉えられてきたと考えるべきである。
《かれが これ(ナルキッサ)を支配するのではなく これがかれを抑圧する》のである。そうであったのだから。この抑圧のあと 夕顔の類型に出会って やっと 源氏は人間復活を為し得たほどである。
夕顔の源氏との対関係は これの観念的な揚棄であった。これとは ナルキッサのことである。まだ 観念成就の出世間=悟りであった。理念を示した。源氏が 必ずしもこの美的世界に沈没してしまわなかったとしたら それは 作者の市民社会学的理念の勝利である。キャピタリスム共同主観体制――そのクリスチア二スム的愛の形式――に むろんマルクスらの指摘するとおり 限界がある。しかし 社会形態的に見た市民社会の観点から言ってその限りで ナルキッサの解放および夕顔の実在性の 土壌は すでに築かれ得たと言ってあやまりではなかろう。
紫式部は 確かに その観念的な成就を描き出したのであり 

  • それは 日本という社会が 一般にアジア的社会体系の中にあって その一社会形態が すでに 観念の資本主義を形作っていたという情況があったそのことのゆえに 可能であったと考えられる。

それに対して マルクスは 一方で その土壌が 実際にも キャピタリスムという社会の総合的で有機的な連関形態において 基本的には 成就されようとしていることを見た。他方で その成就が 共同主観的な《アマテラス‐スサノヲ》連関すなわち 《個別的な市民資本家‐賃労働者市民》連関の中にしかない不条理性に対して 非を唱え 上に引用したようなネガティヴな表現において 市民社会学の勝利を訴え 言いかえれば 個別的な市民資本家のおよびかれらの独占から成る社会形態の経営者(社会科学主体)によるこのような勝利への私的な領有を批判した。このことは――市民社会学からする批判としては―― 社会的に実現されようとするクリスチア二スム的愛の形式を私的に領有する物神性的資本家ナルキッサの解放を主張する以外のものではない。

  • マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)》における婦人の共有うんぬんの論のくだりを見よ。
  • また 社会形態次元つまり政治経済学からする批判としても それは 《特殊利益と共通利害との分裂》もしくは 《特殊性の自立的発展過程》という基本的な視点から離れて まったくひとり立ちして そのままたとえば国家を揚棄しましょうと言うものではない。

ナルキッサは その時代時代の一定の《共通利害》のみを一身に宿した動態性のない停滞的な無限性(その種の悟りなのである)の主体であることを思うべきである。いま現在の社会は このような情況なのですよと その一身において示そうという存在 此れが解放は アマテラス圏の変革という社会革命によって 容易になることはあろうが そのナルキッサは 閉鎖的なアマテラス種族圏の住人であることによって――しかも 一般に 空蝉の例のように 没落アマテラスという境遇と無縁ではないようなのだが―― 別の時代のナルキッサへと移調することはあっても 事の現実的な解放へとは必ずしも進まない。男性(父性)によって――従って 女性(母性)の問題でもあるが――ナルキッサのナルキッサ自身による社会への(具体的に 或るひとつの対関係への)自己放棄を促すことによってのみ 可能となる。

《空蝉の思惟に対する源氏の不可知的 あるいは関与不能のありよう》

《空蝉の思惟に対する源氏の不可知的 あるいは関与不能のありよう》(後藤祥子)という視点が提出されている。これについて コメントを与えておくべきであろう。
空蝉の思惟に対する源氏の不可知 これは そのとおりである。人は 自己充足的停滞性の中の思惟に対しては 不可知である。クリスチア二スム的愛の形式(これも 一種の出世間=悟りである)の私的領有主体への接近は 容易ではない。この私的領有とは 閉鎖的という意味である。しかも 《関与可能性》を信じるプレイボーイ源氏は 対関係形成へと関与しようとする。その結局 《関与不能のありよう》は かれの父性の未熟による。それのみによる。その後の過程は 《自由意志的にかつ自然成長性の中に》のみ流れる。
ただ 空蝉が ある対関係の中への自己放棄を かのじょの自由意志によって成さなかったかぎり その過程は 依然として 停滞性領域にすくむ。初音の巻で 源氏の二条東院に迎えられた尼衣の空蝉が ひとり 《〔その局(つぼね)を〕仏ばかりに所(ところ)得させたてまつりて 行ひ勤めける(仏道にはげむ)さま》を 想うべきである。

きたるべき資本主義的生産の一掃後の性的関係の秩序について 今日われわれが推測できることは 主として消極的な種類のものであって 大部分は脱落するものにかぎられる。
だが 何が付け加わるだろうか。
それは 新しい世代が成長してきたときに決定されるであろう。この世代は その生涯をつうじて 貨幣(かね)や その他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買い取る状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代である。
(F・エンゲルス家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して (岩波文庫 白 128-8)

これに対しては 一見 奇異な感を持つ。このような分析によって 誰か 対関係形成へと新たな出発を促されるであろうか。しかし ここには 真理がある。あるいは 西欧の人びとは このようなアマテラス語による表現(アマテラス社会科学主体からする発言)によって 内的に突き動かされるものなのであろうか。
《科学から空想への――科学から空想への である――社会主義の発展》 これは 紫式部の成就した事柄であった。クリスチア二スムの――そして唯物論的にもそうである――愛の形式を 源氏というイメージによって描き出さなかったであろうか。現代という視点に立てば じゅうぶんに 描き出したと言えそうである。また 源氏の物語の行間を読むべきである。

  • なお エンゲルス家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して (岩波文庫 白 128-8)》は 一般に 先史時代における愛欲のかたち――つまり われわれにとっては 前古代市民的なオホクニヌシ対関係よりもさらに昔のそれ――を いくつかの《うちつけのすきずきしさ(乱婚)》形式(?)として 描きすぎた。文明史が 問題でないからである。原始共産制――それがあるとして――に戻ることが 目的ではないからである。われわれの文明は オホクニヌシのさまざまな《すきずきしさ》の対関係およびスセリヒメの原型的な形式を以って始まる。
  • また オホクニヌシ段階以前の対関係としては 当然 最初の対関係である《イザナキ‐イザナミ》関係が 想起されるが しかし このかたちは 対関係の形式・その形成過程を語るというよりは 対関係における両性の互いの位置関係を 理念的に 明らかにするものである。
  • すなわち 染色体および身体の形状の差異によって男性と規定されるイザナキの 同じくイザナミに対する 最初の約定(対関係の発進つまり 口説き)における先導性 その意味での男性の女性への優位 これを規定するにすぎない。また この古事記の理念は 他方 クリスチア二スムの系譜においてなされる幾何学・神学の体系(共同主観)としての認識を 参照すべきである。

男は神の似像(にすがた)であり栄光であるから 頭に蔽いを被ってはならない。しかし女は男の栄光である。
〔 For 〕 a man indeed ought not to have his head veiled, forasmuch as he is the image and glory of God: but the woman is the glory of the man.
パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 11:7)


さて 対関係の唯一形式という理念――夕顔が観念的に成就した理念―― これはしかしながら われわれは必ずしも 《きたるべき資本主義的生産の一掃後の性的関係の秩序》としてのみ 位置づけるものではない。市民社会が それが社会形態に対してその本来の活発な過程として――スサノヲは本来 反逆児であり 赤心において反体制児である だから アマテラスとの逆立連関がそのような和をともなって動態を取り戻しうると――経験されうるキャピタリスム段階に至ったとするなら なおさらのこと その本来の対関係としての第一次性を発揮しうるであろう。その限りで この一夫一婦なる形式を それぞれの生涯において 弁証法的に 自由に形成していきうると見る。いまはむしろ この動態的な自立的発展の過程においてこそ さらに共同体関係へと連動し波及させて キャピタリスムの生産形態がそれぞれ 揚棄されてゆくのであろう。
またこの過程を これまでに築いたまがりなりにもデモクラシ共同体関係の中で 推進してゆくべきだと考える。長期的展望は これしかない。
ただし ここで この過程は つねに理想主義的に(初めのスサノヲイスムのイデアにのみ乗っかって)経緯すると見るのは ただ《わがはからひにて行ずる》特殊的特殊性なのであって むしろ今度は この愛の唯一形式の成熟の過程を見る もしくは逆に 衰退・崩壊の過程をたどるとさえも 言いうる。これをも同時に考察すべきである。
われわれは 物語に沿って これをたとえば 源氏と藤壺との対関係過程において見出すであろう。それを 次章の課題としよう。
(つづく→2006-07-27 - caguirofie060727)