caguirofie

哲学いろいろ

#17

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

《シントイスム‐クリスチア二スム》連関(神神習合)について――梅原古代学の方法への批判――(その二)

次に問題となることは 共同主観としての《キャピタリスム(知解=労働・生産;立法) / デモクラシ(記憶=組織;司法) / インタスサノヲイスム(意志・愛=経営・共同自治;行政)》は カミの三つのペルソナの一体なる原理とあい通じるかのようにして うたの構造(観念の市民資本)として 歴史普遍的であるだろう。アマテラス圏における三権の分立は 分立しての共同作業・統合性のもとにある。そこで ヨーロッパに発する近代市民の哲学・思想が この原理としての三一性( la trinité )を その内実において知解し明らかにしようとしたことは そのものとしては必ずしも必要なことではなく 要は この原理によって(この原理を共同の主観として) 生活日常の共同観念を貴びそれに遵いこれを利用し主導することの現実にあるだろうと言ってよい。

  • 三つの行為(記憶・知解・意志)の一体性 互いに分立する三権の社会的な綜合性 これらを思惟(おも)うことは重要であり その知識・認識そのものは 必ずしもそうではないであろう。(知っていればいいというようなものではない。)
  • 一般に 共同観念は たとえばナシオナリスムとして 共同主観ないし個人の主観を蔽い束ね従わせようとする。国益や組織・団体の利益のほうを 個人のそれに対して 優先させがちである。共同主観は この観念の資本の顔蔽いを 取り除き 風通しをよくし スサノヲ市民たちのデモクラシの力の発揮されるように努める。
  • 不用意に言えば 二階建ての社会形態なるA−S連関体制は それらA圏(スーパーヤシロ)とS圏(ヤシロ)とが 逆立ちしている。基礎階のスサノヲシャフトが その足で立って 第二階のアマテラストゥームを主導して行かねばならない。
  • 時代が このような時代に入ったとわれわれは言おうとしている。

以上のような問題である。そしてこれが 現代における神神習合なる文明の具体的な問題であろうと考える。
ここでは何を問い その問うてゆく過程としての答えをどこに求めるべきであるのか。これが この章での課題となる。
そこで はじめに戻って おそらくは イエス・キリストその人 または すぐれて共同の共同主観としてヤシロロジを提出するシントイスムの思想 これらが問われねばならない。言いかえれば 端的に提出しうべき課題は 後者をこれまで柿本人麻呂の方法において見出そうとしてきたとするならば このシントイスムの方法とクリスチア二スムとの固有の連関 ここに見出されざるを得ないと考えられる。固有の連関があればである。
もっとも この視座じたいの内容を明かそうとすることが目的なのではなく それによって現代の具体的な理論への到達が――それは すでに成された具体的な理論の認識と批判との作業にあるが―― 課題であると言いかえなければならない。そしてここでは 現代の日本における情況から言って わたしは 梅原猛の理論(観想)の認識と批判において求めることができると考えた。
梅原のいわゆる古代学・日本学の説は これまでにも折りに触れて間接的に言い及んできたのであるが いま問題の《クリスチア二スム‐シントイスム》連関という視座にかんして 重大な問題をはらんでいると見るからである。そこから 一つの道が開けるかも知れない。以下 本論の具体的な展開である。


はじめに 漱石が 不幸な男であったとして 人麻呂が 波乱に満ちた過程を歩んだ男であったとするなら 梅原は 幸福すぎる男であると言おうと思う。むろん梅原は 現在 活躍する論客であり このような総括は 過程的なものであり その域を出ないが もしわれわれが ポール・ヴァレリの方法への序説・その中の《時間的なるもの》で 現代の文学者を論じたように論じることができるとすれば そのようにまず言うことから始めよう。

  • なお あれ(ポール・ヴァレリの方法への序説)は 方法を それの確立じたいにおいて論じ これ(柿本人麻呂の方法への序説)は 方法の方法を考察する。もしくは 先の方法が方法であることを あたかも滞留しつつ 明かすことを目的としている。

人間としてと言うよりは 男としてそう(幸福すぎる)であったと総括して始めるわれわれの梅原理論の批判は まず その古代学の批判にかんして 柿本人麻呂の方法を明かすことにおいて間接的に触れえたとするならば 他方 日本学もしくはその前提となる理論(いわば かれ自身の うたの構造)にかんして より直接的に把握し しかるべき批判を行なっていかねばならない。
われわれは ここで 梅原著《仏教の思想》(上下;角川書店 1980 ISBN:4048140140 )(梅原猛著作集5&6;集英社 1982)を直接の材料とし ここにかれ自身のクリスチア二スムおよびシントイスム(ブッディスムを含む)の把握を見出していくことができる。たとえば 中で その《第一章》の構成はこうである。

一 現代と仏教――新しい思想原理の創造
二 生死の問題――ソクラテス キリスト 釈迦の死の違い
三 慈悲とは何か――キリスト教の愛との比較
四 業について――新しい歴史観

すなわち 《仏教の現代的意義》と題された議論であり これらを読んでいくことができる。ここに シントイスムが直接 論じられていないとするならば ここでこのようにブッディスム クリスチア二スムおよびギリシャ哲学〔ほかに 孔子つまりコンフュシア二スムにも触れられている〕を見とおすことじたいが 梅原日本学ないしシントイスムであろうと捉えられるからである。(つまり ここで言うシントイスムは 幅広い内容を持たせている。)
梅原は ここで ブッディスムないし クリスチア二スム‐シントイスム連関についてのかれ固有の視座を明らかにするにあたって 《三つの概念を選ぶ》。すなわち 節区分に見られるように 《生死・慈悲・業(カルマ)》であって それらは《いづれ・・・も 仏教において根本的であると同時に普遍的な概念のようである》(二)と考えられた結果を示している。
ただしここで うたの構造をそのまま視座とのつながりにおいて見出すわれわれとしては 必ずしもこのように区分した概念それぞれについて 梅原の立論そのままに考察しようとは思わない。うたの構造それじたいを 一つの大きな概念(考察対象)として掲げ 随時 それぞれの概念の問題を見出していこうと考える。これがそのまま ブッディスムを介した人麻呂とイエス・キリストを われわれの視座において見出していこうという初めの課題設定に重なることになる。
(つづく→2006-08-31 - caguirofie060831)