caguirofie

哲学いろいろ

#19

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章二補 《観念の資本》小論〓 ――夕顔の系譜としての浮舟論――

例によって ただちに次章に移る前に 小論を設けて 補足したいと思う。


ところで 戦後の日本において われわれの言う市民社会学を 一つのまとまったかたちで著わした芸術としては 次の二作品を挙げることができる。すなわち 江藤淳作家は行動する―文体について》(1959)および 吉本隆明定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)》(1965)である。さらにこのうち どちらを採るかと言えば わたしは 前者を摂るものであるが いづれも おおきく言って共同観念の優位の社会にあって その動態性を説くことに主眼が置かれたものであると言ってよい。
したがって前者は 《行動》としての共同観念を 後者は 現実性・実在性としての《美》を それぞれ主張していると捉えられるが そのように観念の資本の再生産形式の確認また創造を目指したものと了解することができる。旧来の形式の破壊と新たな形式の創造をである。

  • 実際には 江藤淳あるいは吉本隆明なるそれぞれ一個体が 突如として 世界に出現したわけではないから 伝統的遺産を継ぐものとして 言わば観念の資本余剰がすでに社会資本となっているものを 生産行為の過程に・すなわち市民社会に 表現して再投与するという初発の行為 その意味での先駆的な業績として 試みている。

これら二者が 大きな意味で伝統的遺産として掲げたであろうと推測される古典の中に われわれは 源氏物語――《古事記(オホクニヌシ)‐ブッディスム》類型――を 第一に取り上げるわけであるが この補章での物語に内在する論点としては そのいわゆる第三部ないし宇治十帖の中の浮舟という主題を持とうとしている。そしてその前に いくらかこれら先駆的な仕事について触れておきたい。


一言で言って 江藤は 共同観念の動態性――実は当然のように 共同主観的な理念という動因のことであり しかも この場合 現実の質料関係に裏付けされた理念である――の 此岸領域(現世)を見ることによって 行動を 《作家は行動する》として規定する。吉本は むしろ 動態論の普遍性を見ることにおいて 広く市民スサノヲの《言語》行為を前提し その行動(表現行為)の美を――つまりたとえば 夕顔の抱いた人間生活上の美を―― 共同主観的に(科学的に)理論づける。
それらについて もしわれわれが この章二においても 美が 所有行為そのものにおいて 分析・考察の対象となりうるかどうかと問うて 消極的に答えた経緯からいけば おそらく《言語の美》理論は たとえばあのエンゲルスが表現したように 《資本主義的生産の一掃後うんぬん》という条件が 同じようにそれに不可避的につきまとうものとは思われる。その点で 結論的に言ってわれわれは 後者・作品としての《言語にとって美とは何か》は これを摂らない。ここには 別の意味の夕顔が存すると思われるからである。
他方 江藤についてはどうか。かれには 源氏類型の系譜があると まず言わなければならない。ナルキッサは言うに及ばず 夕顔を超えて進む光源氏の行為の軌跡 その系譜 これらが存在する。その反面で 次には 夕顔を超えるその超え方については われわれの世代とはそれを異にする。たとえばかれは 漱石またはその時代におけるその超え方をそのまま受け継いでいるとさえ思われる。それは 漱石がまだ 日本におけるキャピタリスム共同主観の興隆期――明治以前までの観念の資本体制の明治における動揺期――に住んでいた点 および 戦後の同じく興隆期と動揺期の世代との関連という点において 卑近な見方によっては 捉えられよう。
江藤は 現代における夕顔の系譜――理想社会としての共産主義社会およびそこにおける理念的な対関係を掲げて行為する類型――を 文字通り《実現を無限に延期された》スサノヲ市民運動と規定する。従って この現実の市民運動を 実は 市民社会学のジャンルとしてよりは 旧来の社会形態次元での政治経済学ジャンルに属するものと考える。その系譜における社会革命は 従って スサノヲの現実的な対関係・実際の時間の所有を確立しようとするもので 直接には なく それはただ アマテラス圏の社会科学主体の交替による 所有の形態の新しい所有を目指すにすぎないということである。本来 活発な時間の私的にして他者共存的な真に自由な所有は ある。従って これを 作家・作品の中に求めるということになる。この方向・軌道は われわれにとっても 由縁なしとはしない。

夏目漱石が この二つの機軸

  • 福沢諭吉の〈文体〉にあったあの相対主義的な行動と 内村鑑三の〈文体〉にあったあの〈存在〉の認識と絶対者への希求とが つねに表裏一体をなしながら 同時に存在する》という二つである。前者の機軸は 《私的二項関係》であるとも言っている。後者は 《一人称‐三人称の関係》のことだと言う。

を融合させたとはいわない。しかし あらゆる真の作家はかならずこの二つの機軸のあいだを 漱石が終生そうしたように揺れうごかなければならない。散文をもって書く以上 かれの行動は必然的に相対主義的になる。しかし その行動の目的が 〔言葉の〕《わな》(観念の共同性なる水路へ 人びとの心理は 誘導されるというような)のかなたにかくされている《現実》――《実在》にふれることであるからには そこには絶対的な目標があるであろう。
そこに《神》をみれば かれは宗教家になる。しかし そこにわれわれはかりに《実現を無限に延期されている》にせよ 人間の究極の理想である完全な自由のあかしをみるのである。
そのなかに到達しようとする行動だけが 充実した《文体》――もっとも人間的な行動の軌跡をかたちづくる。
江藤淳作家は行動する (講談社文芸文庫) 結語の部分)

すなわち 江藤の理想とする自由は 同じく実現を無限に延期されているとしても それは 社会形態次元での自由というよりは 市民社会 もっと言えば 対関係における自由だというのである。

  • 吉本隆明が前掲作品にかぎらず この同じ見解のもとにあることは むしろ確言すべきことである。ところが かれの方法は 直接ここへは向かわない。また これを扱わない。一度 社会形態ないし世界史の領域を迂回して戻って来ようというものである。
  • われわれは それは 止揚しうると考える。またその点で 《・・・美とは何か》よりも 《共同幻想論》を採りたい。

市民社会学が 愛欲および愛に始まるとしたわれわれにとっては この意味での江藤の方向と 同じ軌道の上にある。ただ われわれは強いて江藤のそれとの差異を見出すとするなら それはわれわれが 《自由のあかし》と見るのではなく また作品の中に《行動の軌跡》をおさめて描き上げるというのでなく 作品じたいにおいて自由を表現し伝達し行動しようとするという点においてである。
反逆児スサノヲは その反逆児=自由形式じたいに すでにおいて ある意味でアマテラスである作家なのだという視点である。これを顕揚したい。アマテラスとは 《共通利害》の立ち場であった。
このことは 直説法と間接法(もしくは接続法)とのちがいであるということができるかと考えるが――その違いじたい 芸術の方法にとって 基本的な問題を提起するだろうが―― 別の角度から言って 基本的には 時代のちがい・時代認識の差異によるものと考える。(だから 方向の質の相違に基くものであるかも知れないし ないかも知れない。)
われわれの市民社会学の立脚点は 新しい時代の次のような要請のうちにある。それは  キャピタリスム共同主観について 一方で それがその反措定としてのソシアリスム共同主観を持ちえて しかしながら このソシアリスムが必ずしも 市民社会学としては――だから実質的に 社会形態論としても――キャピタリスムに対する同等の地位に立つ新たな共同主観を明らかにするものとは 共同主観されがたいということ。だから 他方で キャピタリスムは 市民社会学としては デモクラシあるいは対関係の原形式(止揚されたオホクニヌシ‐スセリヒメ類型)を実現させうる土壌を欠いては いないものとして すでに 基本的な共同主観を形成しえているということ。このような前提に立って われわれは新しい立脚点に立つことになる。
これは 必ずしも共同主観の新しい形式を築くものではないが その新しい形式の開拓へとつながりうるものと信じられる。

  • たとえば 言語行為としても 直説法(あるいは命令法でもよい)が それでもそれが 必ずしも 言葉どおりの内容をのみ表現するものとも思えないこと そこに 

顕教(現行の罪の主体・政権)‐密教(罪の主体の新しい形式を担うスサノヲ域)》
の構造的な連関を宿した言語行為が なお存在すること これによって 芸術もしくは《うたの構造》の大いさ および その動態性が 証されると思うからである。――われわれは いまは このようにしか言うことが出来ない。

しかし禅語の《明暗双双》といふ言葉の意味が いまだにはっきりと私には分からない。・・・
もっとも朝比奈宗源の注釈によると 《明》には差別 建立 放行などの意味があり 《暗》には平等 掃蕩 把住などの意味があるのだとある。その差別といひ平等といふ意味だけをとり上げて そこから推して行くと 《明》には相対 《暗》には絶対の意味があり 更にこれを漱石が晩年にモットオとした《則天去私》に引きつけて考へて見ると 《明》は私の世界を意味し 《暗》は天の世界を意味するものであるとしても 一向差支へないのではないかと 私には思はれた。
――しかし仏書もしくは禅書には 丁度それとは逆に 《明》は無差別の世界 絶対の世界 天の世界であり 《無明》であるところの《暗》の世界こそ 差別の世界 相対の世界 私の世界であるととっていい用例も 相当あるやうである・・・。
小宮豊隆:《明暗 (岩波文庫)》への解説)

少なくとも 《明暗》の主人公の対関係つまり 津田とお延夫妻のあいだには 互いに市民としての《私的二項関係》と そしてそれぞれに《一人称(市民)‐三人称(公民)関係》とが 存在しそう描かれているであろう。二つの機軸が捉えられている。《天》は 強いて規定するなら 共同観念の理念的側面を言うのであろう。
しかし 漱石の世界には 当然のことながら 源氏物語が存在する。それは言うまでもなく ともかく 社会形態および市民社会が キャピタリスム共同主観(たとえば 契約・価値の交換の等位形態・それらのもとでの生産の様式)を 基軸とする点である。
そして さらに言うまでもなく 等価交換による交通体系のもとでは 際立って 市民による価値の所有は その私的な所有主体が 明確に規定される。そしてその主体は 一夫一婦制のもとの家族である。対関係の局面に限って言うなら 《三人称(公民)》もしくは《天》の側面は この一夫一婦という方式および形態じたいを意味する。直截に言って 津田の《天》は ここでは お延(のぶ)との一夫一婦の対関係である。
したがって 《一人称(市民)》ないし《私》は たとえば 昔の恋人であった清子とのそれと見てよい。むろん お延とのあいだに そして清子とのあいだにも それぞれ何らかの《私的二項関係》が 過程される。その機軸も見失われていない。
ここでは 共同観念優位の世界に 確かに 共同主観的現実が入り込み それが 次の二点によって 共同主観の理念が 共同観念の理念と 同致されて見られていたと考えられる。二点とは 一方で 共同観念優位の社会にあって キャピタリスムが 共同観念の中核と目されていた社会形態(国家)の主導によって運営されていたこと および他方では このキャピタリスムが 富国強兵・殖産興業等の目標をもって 興隆期にあったこと これらである。これらの事情によって おおむね 理念というものが 共同観念(ナシオナリスム)のものでも 論理的な共同主観のそれとあたかも同致されたかも知れない。
やはり 対関係の局面にのみ限って繰り返せば 対関係の唯一形式を実践することが 天に則ることと同致された。言いかえれば 私的な二項から成る対関係(夫婦・家族)の領域において ブッディスムの無限性(悟り→あるいは慈悲)または儒家に言う修身・斉家といった理念が 実践されようとしたことが見出される。漱石の作品は 総じて このような枠組みの中の 家庭小説・心理小説・時に アジャータシャトル時間複合(阿闍世コンプレックス)を伴なった個体的な観念小説である。
ただ言えることは このような時間複合(コンプレックス・屈折)を伴ないながらも そのテーマは・一貫して選ばれているテーマは 一定の制度的な対関係形式の中へ その同世代の第三者が割り込んで形作るいわゆる三角関係であって そこには 消極的ながら とりあえずやはり 共同観念の動態性が 求められているといったことである。
(つづく→2006-07-28 - caguirofie060728)