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哲学いろいろ

インタスサノヲイスムについて(8)

このとき もしこの国家形態も 《ヒト》としての《S−A連関》存在という《うたの構造》に基づくとするならば そうだとするならば そのような基礎にある概念=現実は どこまで行っても無視することのできない重要な要素である。


その意味は 社会が 《ヤシロ》を――もしくは《ヤシロ(S圏)‐スーパーヤシロ(A圏)》の連関を―― その根底とするものだと考えられることである。

これを言いかえれば 
・《社会形態》は 市民社会=ヤシロ(S圏)を根幹とし 
・国家形態としては A圏主導のA−S連関制をとると同時に 
・概念としては(基礎なる観念の資本としては) ヤシロの普遍性・その普遍的な動態過程にもとづくであろうということ
・すなわち 歴史を通じてみれば 《ヤシロ(主導S圏)−スーパーヤシロ(A圏)連関》の形式(=内容)を 基本とするであろう。


これは・つまり 《国家形態として》と 《概念として》との二面の実態は 事実問題として 社会の現実二重性であり また うたの構造としては スサノヲ市民にとっての言語二重性である。


この意味での言語二重性とは スサノヲ語(人間語)とアマテラス語(世辞もしくは概念・理論)とから成る。

(本音と建て前という捉え方があるが それは 内容が 広すぎるかも知れない。)
(つづく)

インタスサノヲイスムについて(9)

やしろ(社会)は 《ヤシロ=スサノヲ(S)圏=市民社会》のみであった。そこに 《もっぱらの公民たちの第二階=アマテラス圏=スーパーヤシロ》が築かれた。

ならば ヤシロの共同自治を このスーパーヤシロをあらたに含めて それとの連関(A‐S連関)のもとに おこなっていこうというのが はじめの歴史的な実際であったろう。また《S‐A連関》は 頭(A)で立つのではなく 足(S)で立つことが実際のことであるだろう。


ともあれ 観念の資本 もしくは うたの構造が 社会的に そのように構造的に開かれたのである。


情感の交流の道筋が そしてその感覚の滞留としては観念の運河なる道筋が 社会的にかたちづくられていった。


つまり単位的には 人間と人間の関係として・つまりもっと基軸としていえば 男と女の一対の関係において あたかも一方の性がスサノヲであり他方の性がアマテラスであるというかのように これも S−Aの連関を成すとき その連関の動態において 過程する情感の共同およびさらにその破綻と和解と修復などなどの事態かつ形態が あたかも社会形態にも 応用されて かたちを持っていったのだろうか。


ひとりの人におけるS‐A連関があり そして 人と人との あたかもS‐A連関が持たれる。さらにこの地面に足のついたS圏におけるさまざまな《S‐A連関》の過程と形態 これらの上に その仮象として 《S‐A連関制》なる社会形態つまり国家が 築かれている。

インタスサノヲイスムについて(10)

人間と人間との関係 もしくは むしろ実際具体的に 男と女の関係は 基本として理論においては ひとりの《S−A連関主体》ともうひとりの《S−A連関主体》との平等なる関係から成る。


このとき 事実問題としては 互いの視線が 必ずしも 水面的な同位のもとにあるとは限らないようである。どちらかが上にあって しかも 両者を取り巻く環境としては はすかい(斜め)に飛び交うかのようである。


この傾斜のもとにある視線関係は これも 人の外側に見られる《S−A連関》のかたちである。両者どちらかが SかAかの位置におかれる。一般に《S》の側が 《A》より下位に身を置く。

インタスサノヲイスムについて(11)

《人間の人間に対する関係は 男の女に対する関係である》とも言われる。
男の女に対する関係という性差のある関係において 人間どうしの関係がどのように捉えられ どのように育まれるか そこに基礎をおくという意味であろう。


その意味では ヤシロの歴史的な掘り起こしであるとか あるいは 社会における原形的な《S−A連関》の関係であるとか そのような課題については 市民としての性・対(つい)関係・相聞を その焦点とすることも考えられるだろうと。

インタスサノヲイスムについて(12・おわり)

以上が インタスサノヲイスムの前提であり それをめぐるさまざまな課題への出発点である。


この出発点は とうぜんのごとく 動態である。その過程が 問い求めの場である。問い求めの場じたいが 時間経験的なその時々の答えの内容でさえある。


もしさらに言うとすれば 問題は微妙であって 目に見えないことがら――はっきりと経験的なのだが 目に見えていない領域での社会関係―― ここに重要な要素が動いているように思われることである。


すなわち S‐A連関は 目に見えないところで――互いの間の観念の水路をとおしてのように――はたらいている部分がある。これがむしろ 重要であり しかもすべての鍵を握っているかにさえ考えられる。この点を言っておこう。
(終わり)


自然と社会 そして その社会の中の近代市民意識的な人工的連関〔たとえば 貨幣を媒介とする交通 貨幣の貨幣(金融)を生んだ社会的制度としてのうたの構造 等々〕 これらは 対なる性関係・市民相互の相聞の世界を――つまりやはり 《うたの構造》として――その基軸とするであろうからである。


相聞は 必ずしも男女の関係には限らないものだと言う。だとすれば この相聞としてのおつきあいは 交通であり 協働関係であり 信頼関係であり 信用の問題にもなり さらには 貸し借りの関係になり そこから 容易に 貨幣・金融のうたの関係も 制度としてかたちづくられていったと考えられる。


すべてが 性関係に還元されるというわけではない。市民どうしの相聞において うたの構造の基本的な原理が――鏡をとおすようにして――明らかになるであろうかも知れない。


すなわち 生産の現場における相聞(=二角協働関係) 金融制度をとおしての市民の生産行為の相聞 あるいは株式関係をとおしてのそれら もしくは 株式をとおさないかたちでの市民のうたの興り等々 これらインタスサノヲイスムは 原理的には 対または二角の関係なる相聞歌に現われて見られるであろうと考える。


付加価値(利潤)とは 二角協働関係から生まれた第三角価値である。


これをめぐって 社会的な《S‐A連関》がかかわってくるであろうし そもそもはじめの相聞関係において《S‐A連関》の動きが見られると言わなければならない。


たとえば 《いじめ》とは このような人間の社会関係において起こるものと考えられる。



ここから 個体としての《S‐A連関》が 社会におけるそれとしての形態をつくっていくようである。