#31
――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708
章三補 《光源氏‐明石の君》なる対関係――観念の資本の《世間(差別)》形態――
最愛の人・藤壺との対関係を その密教圏の静かなしかし確かな流れを ともに 新たな段階へと止揚しようとする源氏は 作者・紫式部とともに 明石の入道との出会いによって あたかもブッダなる人物像へと 転換する。
このように仮象された学が 現実的であるか否かは 現実が決定する。市民社会の発展が決める。われわれは そこに 一人の英雄を示されるのだが――もしくは それは もはや紫式部と主人公との幻想的な対関係とも言うべきであるかも知れないが―― この英雄が 市民社会の中から起こって そこに 広く市民の自由なる連帯を築くか否かは われわれ一人ひとりの人間の実存の問題である。
明石の入道の実存から広がって マルクスはそれを 階級闘争の過程に見出し レーニンは 階級闘争の勝利に求めた。われわれは スサノヲイストの市民政府の樹立に求めようとするのみである。
《下僕にとっては どんな英雄も存在しない》というのは ヘーゲルの好んで引用したフランスの諺であった。現代における英雄は――現代において源氏‐藤壺類型が 非現実にとどまらないものと 遍く なったと考えるからには―― 市民スサノヲにとどまって 市民社会を新たな未来へと移行させていく単位的な対関係を築く人びとである。紫式部市民社会学が一つの勝利を獲得した考えるときには そのように言っていくことになる。
紫式部にとって 当時の生産行為様式の中にあっては 政治家・明石の入道の罪を 自らの内へと止揚して容れた源氏類型であった。その罪とは 出世のわが計らいによる観念成就のことであった。その罪の包摂 罪を容れての自治――そのような《アマテラス‐スサノヲ》連関としての実存――のことであった。
入道の意向は いま結ばれた約定にのっとって 源氏の王権への復帰の過程において 実現へと運ばれていく方向に向かう。娘・明石の君の弾く琴をお聞かせしようという源氏との約定にのっとってであり ということは 実は作者・紫式部の初めの計画どおりということだと 薄々は 考えられる。
この意味で 光源氏‐明石の上という対関係は 源氏‐藤壺の対関係という特殊性を大前提としていなければ意味を持たないとは言え 大きく舞台の上に登場してきた。藤壺との対関係という特殊性の自立的な発展が 物語に関するかぎり 革命過程を示している。この方程式に依存するひとつの従属概念であると規定するのだが そう言っても この明石の上との対関係をけなしたことにはならないであろう。もっとも われわれは すでに明らかにしたように この政治的なその後の過程を つぶさに眺めて見る必要を見ない。
しかしただ それにしても この明石の上およびさらにその源氏との間の娘 つまり のちの帝妃・明石の女御の ひとつの出世間のあり方は 源氏‐藤壺なる対関係の中でというよりは 別の情況も 捉えなければならなくなっているようだ。
実際には その頃には正妻となっていた紫の上 かのじょとの対関係のほうが 重要だとも考えられてくる。その頃には 前の正妻・葵の上は亡くなっていて 若紫が 正妻・紫の上として 取り仕切っていた。その中に 明石の上の存在も 大きく包摂されて かのじょとその父・入道の野心(祈念)が 進展していったとも考えられてくる。この一側面も 見逃せなくなった。その意味でも すでに予告していた紫の上との対関係について学ばなくてはならないかも知れない。
家族形態としての生産形式――生産力の主体とその協働行為――が 見出されなければならないであろう。
(つづく→2006-08-09 - caguirofie060809)