caguirofie

哲学いろいろ

#15

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章二 《光源氏‐夕顔》の対関係―― 一夫一婦という対関係理念――

夕顔なる女性は しかし とらえどころのないひとりの存在である。
対関係の唯一形式――それを望む存在として夕顔は描かれていると見てよいが――という崇高なる理念は しかし それとして 論じることのむずかしい理念である。

  • 夕顔が対関係の美学的形式を望む存在だというのは ここで 端的に言って かのじょが 頭の中将の愛人としてあったものの かれの正妻の怒りを畏れて 身を引いたということに現われていると考えるものである。
  • すなわち オホクニヌシに対して 嫡妻スセリヒメとのほかに別の対関係の相手としてあることを嫌ったヤガミヒメイデアに通じるものがあり なおかつ ヤガミヒメが自分の子をも 前古代市民的様式のうちに 文字通り清算してしまって その自らのイデア固執したのとは違って 頭の中将と自らの子・玉鬘を いづれのかたちにせよ 育てようとしたのが この夕顔であり そこにはともかく古代市民的に普遍的なナシオナリテ(公民=市民権)成立の事情がうかがわれるであろう。その意味で 夕顔の抱く対関係へのイデアは クリスチア二スム‐キャピタリスムの系譜の 一夫一婦方式に 通じるものがある。

時間――市民社会の基点としての――が 確かに つねに ある一つの対関係形成の過程からのみ生まれるものであるとしても その対関係の至上なる形態(過程)を 考察の対象として捉えることは 不要だとさえ言える。(物語の中において つまり われわれがその物語の中に入って 感情移入して捉えている対関係の形式は つまり特にその理念的な形式は その虚構の世界から身を引き離してあらためて 表現するときに いくらか認識しえるかも知れないという程度であろう。)そして 夕顔論は この一点の指摘において すべて事は 果たされたと言って過言ではないだろう。
物語において あの空蝉に拒まれ 《はづかしくて 〔世に〕ながらふまじくこそ思》(空蝉の巻)ったという源氏が 夕顔とめぐり合って かのじょとの関係において 《人間としての復活》(秋山虔)を持ちえたとさえ言いうるにかかわらず このひとりの女性を 批評の対象として俎上にのぼらせることは難い。(あるいは別にまた 源氏は 過去に かれの義弟である頭の中将の愛人であったものとしての常夏とめぐり合ったことで 《復活》したのかも知れない。)
愛の崇高な形式は 確かに 物語――芸術――において 認識の対象となりうるものではあるが しかしそれとしても そのような主人公のイメージとして そのような愛の行為形式が 明示的に捉えられたといったかたちにおいてではない。われわれは わづかに 物語の全体として――または その背後に―― そのような愛の存在が のぞまれうると言うにすぎない。また 物語を仔細に分析するならば おおよそ いつも その具体的な過程としては 現実的に いづれか破綻をきたすといった構造を露見するものである。むろんそれは粗探しをしてそうだというのではない。しかしただ 源氏においても 夕顔は 登場してまもなく――たとえば その後 死すべき経過をたどるとしか思われないような筋の運びが あらかじめ 見出され―― その存在(つまり人物)の非現実性が いづれか顕わになる。

  • この点は 必ずしも 具体的にあらためて指摘しておくに及ばないとも思えるが それは たとえば 次のような筋の運びに見出される。
  • この夕顔の巻頭から述べられる源氏の・夕顔という存在の発見の事情そのものの現実性にもかかわらず 夕顔との実際のなれそめ自体は 《この程のこと くだくだしければ 例の(=例によって)漏らしつ》として 作者自身によって控えられていることにかかっている。両者の初めての出会い(約定)は わづかに 源氏の秘書の惟光が取り持ったというにとどまる。夕顔のその意味での現実性は――その過去の頭の中将とのそれは 措くとしても―― わづかに 惟光という男の現実性いかんにかかわるのみである。頭の中将とのかかわりとしては 何故なら かれとのあいだには 玉鬘なる第三角がすでにもうけられているからには 現実的である。

必ずしもこの世の存在とも思われぬ夕顔は それでも 対関係の一つの美しい世界を形作る。とだけは 言える。言っておこう。しかし――しかし―― われわれは この美の世界が 今度は ここで簡単に言って なおオホクニヌシ類型に通じているとも言わなければならない。

・・・
山処(やまと)の 一本薄(ひともとすすき)
項(うな)傾(かぶ)し 汝(な)が泣かさまく
朝雨の 霧に立たむぞ
若草の 妻の命(みこと)

・・・
吾はもよ 女(め)にしあれば
汝(な)を除(き)て 男(を)は無し
汝を除て 夫(つま)は無し
・・・
真玉手 玉手さし枕(ま)き
百(もも)長に 寝(い)をし寝(な)せ
・・・

と歌いあったオホクニヌシ‐スセリヒメ類型そのものとは言わないまでも――それは 繰り返すまでもなく 社会形態のあり方の違いからだが―― しかしいまの夕顔との対関係は なお シントイスム‐ブッディスムのその無限性(彼岸性)を通したかたちでのやはりオホクニヌシ類型を 暗に示していると断言しなければなるまい。
よその国の男パリスにトロイアまで付き従ったとされる女は そのヘレーネーの幻影なのだとして なおも以前の対関係すなわちその相手であるメネラーオスのもとにあるという《ヘレーネー‐メネラーオス》類型そのものではないが しかし クリスチア二スム――つまりここでは 《アベラール‐エロイーズ》類型――の無限性(創造者としての唯一神)を通して なお 原形的なヘレーネー像にとどまろうとするものなのであろう。
逆にそのとき 古事記におけるオホクニヌシ‐スセリヒメの両者のうたの構造が 明示的にも 対関係の唯一形式(一夫一婦方式)を 抽象原形として うたっていることは 二重の意味で つまり それとして および クリスチア二スムの愛の形式との類比として 日本人としてのわれわれにとって おおいに 現代の情況をも語りうるとも言わなければならない。夕顔の悟り――愛の過程としての出世間――は まずこのような事情のもとにある。
(つづく→2006-07-24 - caguirofie060724)