caguirofie

哲学いろいろ

#16

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章二 《光源氏‐夕顔》対関係―― 一夫一婦なる対関係理念――

すなわち われわれは 以上の前提をもつならば 同じその前提に立って まずこの《夕顔‐光源氏》対関係を 弾劾しなければならない。
対関係の崇高な理念は ここで――夕顔のばあいは あの悪しき無限に立つものではないが―― 観念の無限性の上に立つものであると明言して 批判されなくてはならない。現実の上に立ってはいない。観念の資本は なおここで 別種の停滞域のもとにある。
夕顔は むしろ われわれのあのエロスを この美的世界において 動物と共有してはいない。むしろ かのじょの対関係は 《エロス的人間》のただ観念による成就ということになる。そのような観念の成就をうたうことは 停滞性にあり つねにわれわれはこれを アウフヘーベンせずばなるまい。むしろそうなのである。

  • コミュ二スムの美的世界を拠点として 市民社会を発進させようとすることは 悪しき無限の上に立つものではないが 観念の無限性(その種の悟り)の上に立つものでしかない。と言わざるを得ない。もし 時代が一転換期にあるとするとき 史的唯物論といったその観念の資本の側面 これを葬らねばならない。


ここでは 従って いくらか視点を移行させて まず哲学の世界に逃れなくてはならない。初めに アジア的市民の愛の様式はその基本形態として 次の事情のもとにあると考える。
《世間(迷い)‐出世間(悟り)》構造のどこまでも自然史過程にあるということ これであり そこで たとえば 《わがはからひにて行ずるにあら》ず 《ひとへに他力にして自力をはなれたる》自然史過程を 規定したのは われらが親鸞であった。

念仏は 行者のために 非行非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば 非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば 非善といふ。
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに 行者のためには 非行非善なり。
歎異抄 (岩波文庫 青318-2) 八)

親鸞によれば 自力による出世の観念的成就は これを嫌う。

煩悩具足の身をもち すでにさとりをひらくといふこと この条もてのほかのことにさふらふ。
即身成仏は真言秘教の本意 三密行業の証果なり。
六根清浄はまた法華一乗の所説 四安楽行の威徳なり。
これみな難行上根のつとめ 観念成就のさとりなり。
来世の開覚は他力浄土の宗旨。信心決定の道なるがゆゑなり。これまた易行下根のつとめ 不簡善悪の法なり。
(同上 十五)

これは まず総じて なおオホクニヌシ類型を顕揚しようとするものである。スセリヒメとの美的世界が なお オホクニヌシの他のいくつかの対関係と並行してあるという土台領域の 顕揚である。《易行下根(スサノヲ=オホクニヌシ)のつとめ》のほうに 重心がある。
親鸞のみによれば 夕顔は その中の美的世界の唯一性の《来世の開覚》に属す。現世・現実の過程ではないということである。従ってわれわれは これに対してただちに 現代において この本来 活発な土台領域のそのままの顕揚とともに 自然史過程を内部から止揚しようとする《観念成就のさとり》領域――いわゆるアマテラス出世圏――をも 別の意味でむしろ顕揚しなくてはなるまい。
現代においては 一つの社会形態が 国家として(国の家として) それのみで完結して自足するものではありえず 言わば《難行上根(アマテラス社会科学主体)のつとめ》までも 《不簡善悪(善人たると悪人たるとを問わない)の法》の領域が含むことになっている。 《易行下根(オホクニヌシ社会主体=スサノヲ)のつとめ》の領域を合わせて 構造的に包摂して 新たな広義の《易行下根( 新たなSusanowo〔 - Amaterasu 〕)のつとめ》が生まれ 難行上根のつとめは わづかにもう一段上の世界史(国際社会の綜合域)に属すものとなったからである。
《観念成就のさとり》は その綜合域で 生きる。(建て前で事が運ばれる。そういう場合がある。)社会形態(社会科学主体のつとめ)が 《一人の王の わがはからひにて行ずる》ものではなくなったのである。その意味で 市民社会は むしろ それ自身の外枠としての一つの単位社会形態を主導する動因として 対関係形式の十全なひろがりを持ち 夕顔類型は 《来世の開覚》にとどまるものでなくなったからである。市民に主権が存するという民主主義の謂いにほかならない。
これまでの《観念成就の悟り》主体=社会科学主体が たとえば人間宣言をなし 観念の無限性(共同観念の幻想領域)に拠ることの人間としての罪 これをけっきょく背負うことを免れることが起きた。そこにおいても 《不簡善悪の法》がおおきく浸透して定着する。かれは かれも《善悪のふたつ総じてもて存知せざるなり》(歎異抄 (岩波文庫 青318-2) 結び)とうそぶくことが 許される。

  • ただし AmaterasuのAmaterasuであること――抽象名詞形として Amaterasité ――と 社会科学主体としてのAmaterasuとが 別のものになったとも言いうる。《国の象徴であり・・・国民統合の象徴であって この地位は 主権の存する・・・国民の総意に基く》というAmaterasité と Amaterasuとは 歴史的な社会形態の本質において 異なるかも知れない。たぶん そう言ったところで 同じもの(社会科学主体)であると規定しるのではないか。
  • Amaterasu行政府が 交替性・動態性を持つようになったのである。しかも それは 易行下根つまり Susanowoのつとめともなったのである。現代の社会科学主体は その意味で 実際に 市民政府 le gouvernement susanowoïste 形態を採る。

つみを滅せんとおもはんは 自力のこころにして 臨終正念といのるひとの本意なれば 他力の信心なきにてさふらふなり。
歎異抄 (岩波文庫 青318-2) 十四)

というふうにして かれAmaterasuも 易行下根の領土に足を踏み入れたのである。またその逆である。(Susanowoが 難行上根の領域に分け入ったのである。)つまり それまでのアマテラスは 自力(アマテラスなる精神と知性の力)で 出世(悟り)を得ようとしてきた。
源氏は――物語に戻れば―― ここでまだ かれがもとより臣籍に降下している(スサノヲ圏にある)とは言え 社会科学主体に属する人間として――そしてまた いまの情況では それをすべて隠して 夕顔に会うのだが―― その社会科学主体(王権)としての罪を 難行上根のつとめとして背負う存在であることを免れていない。しかしながら――あるいは 従って―― 後に藤壺との密通の子・冷泉院の実父として 王権回復の行為に参画するといった行為にも及ぶ。などなどを まず 参照すべきであろう。

ただ 紫式部市民社会学の偉いところは 源氏が ただ単に社会科学主体(単なるAmaterasu難行上根の者)として 罪を背負うとはしないで 源氏の存在じたいが罪であるとの視点を打ち出している。この視点の上に立ち すでに 人間宣言( homme = Susanowo であることの宣言)を終えた存在であるとすること これである。

  • たとえば次のような批評がある。

〔王権回復の行為〕そうした行為の主体である存在自体が本質的に罪であるというような・・・
秋山虔 前掲共同討議)

従ってここでは 夕顔――かのじょが 簡単に物の怪に取り憑かれて死ぬということ――の像は 現代の視点に立って 不条理であると まず しなければならない。夕顔論の総論は このように概括するであろう。罪はゆるされているから 死ぬ必然性は もはやない。一夫一婦方式なる美学の観念的な実現 言いかえれば 出世という悟りが観念成就のさとりとなっているということ これのほうが もはや 非現実的である。易行下根。不簡善悪の法。 
(つづく→2006-07-25 - caguirofie060725)