caguirofie

哲学いろいろ

#17

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章二 《光源氏‐夕顔》対関係―― 一夫一婦なる対関係理念――

夕顔論は 言わずもがなの領域に入る。
頭の中将が 帚木巻のあからさまな女性談議において

――なにがしは 痴れ者の物語をせん
(帚木――雨夜の品定めのくだり)

と言って始めたかれの夕顔(常夏)論 だから作者の 従ってその限りで われわれの 夕顔論は ここで言わば おのれをも そしてその座の気配をも すべて《痴れ者》の世界に誘うひとつの領域に入る。

女を〕《あはれ》と 〔私が〕おもひし程に 〔女が〕わづらはしげに思ひまどはす気色見えましかば 〔私は〕かくも 〔女を〕あくがらさざらまし。 She need not have suffered so(=後に頭の中将から身を隠してしまうほど) if she had asserted hersef a little more in the days when we were together.
(帚木――頭の中将の体験談)

という形式(性格) つまり 《もう少しうるさく付きまとうようにしてくれたら 女に失踪させるようなことも決してしなかっただろうに》と言って回顧しなくては仕方がないような形式。これが 痴れ者の度合いにかかわる。
また 夕顔にしてみれば 自分は 対関係の唯一形式――その美的世界――に生きているとするからには 正妻の叱責を畏れてこの身を引くといった突然の失踪も 当然のことであったというのであろう。
しかしここには われわれは この《痴れ者》の談議を われわれ自身 推し進めて 一夫一婦方式を 社会的に その美の世界から実質的な世界へと揚棄させようとするモメントが 同時に存在する点をも見逃すことはできない。それは 一夫一婦制への思い入れではなく あのオホクニヌシ‐スセリヒメ類型のそれが 時を隔てて 遠く キャピタリスムというクリスチア二スムの系譜としての社会体制段階に至って初めて 社会的に ともかく実質化したことは 見逃せないという点である。
それは 《アマテラス‐スサノヲ》連関が 一民族社会形態の中で そのまま完結していた時代とはちがって おおきく言わば一社会形態の中のその連関は その連関の全体じたいが ひとつの広義のスサノヲ(オホクニヌシ)圏となって動くという世界史の現段階の確認を促すからである。
このとき 夕顔の美的世界は もはや 日常生活の実質世界 Realität のことに属し 総じてわれわれは この点で その痴れ者の世界から解放されている。また ここでも 作者・紫式部の偉い点は 次のように述べて この現代の世界を かのじょ自身 実質的に規定していると思われる点である。源氏が ひょんなことでめぐり合ったこの夕顔に対して まだ氏素性も明かさないまましのび会ってひかれてゆくとき 自邸(それは 正妻・葵の上の邸ではなく 母から伝領した二条の院だが)に迎えようかとさえ思う そのときの言葉:

《わが心ながら いとかく 〔女=〕人にしむことはなきを 〔この執着は〕いかなる契りにかはありけん》 He wondered what bond in a former life might have produced an infatuation such as he had not known before.
(夕顔――源氏が夕顔のもとへ 身を隠して通うくだり)

これが 示すように すなわち すでに見たように かれと夕顔とのあいだには 何の最初の《約定》もなく 事は始まったのであるが それでも その約定――つまり対関係の正式な発進――があったかに思われるとさえ主人公に述べさせるくだりにおいてである。

  • いくらか思い入れをして捉えるならば 対関係の一つの原形としてのオホクニヌシ類型が 事の現実性 Wirklichkeit を――だから 時代を超えたそれを―― 持つかに見えるという点である。

ここには 確かに 反面でなお 事の共同観念性――ここでは 前世の契りという所謂る無限判断 Unendliches Urtetil (早い話が うらないのたぐい)――が潜む。しかしながら その事がやはり 約定もしくは対関係の活発な過程に発するとする限りで そこには 他方での 個体の幾何学的な(または神学の)精神に由来するクリスチア二スムの愛の形式にもつながるその理念が 与かっている言うべきである。
なるほど 理念 Idee ――つまりむしろ質料〔‐形相の関係〕の現実過程のこと――は 理性 Vernunft とか概念 Begriff とか言ったかたちにおいて そしてそれらの権利(生存=共存権)への体系化・だから キャピタリスム共同主観にまで至るものの確立を俟って初めて それが 有効 Wirklich であると言える。
けれどもそれを この源氏‐夕顔の対関係に 紫式部が思い描かなかったとは言えない。それが 当時 哀しい結末に終わらざるを得なかったとは言え それは 共同観念の世界にも 事を静態的かつ停滞的な局面にのみ限らず 現実の過程へと突き動かす動態論が まったく欠如していたとは言えない重大な一観点を示しえている。夕顔は 話の筋として 失敗作であり かつ アジア的市民社会学としては 西欧的な共同主観の世界に対してもい 誇りうべきおおきな知解行為の遺産だと言わなければならない。つまりあのナルキッサの社会的解放へと発進するという始点に立っての議論だと考える。
市民社会学としては 世界を 《特殊性(スサノヲおよびスサノヲ・ヤシロ圏)の自立的発展》の過程として捉えていいように思う。そして やはり市民社会学が対関係(愛欲および愛)から始まるとするならば それは 《オホクニヌシ‐スセリヒメの原型的な対関係の自立的発展》として捉えられよう。
その発展過程の崇高な理念は ――それ自身への回帰としての――対関係の唯一形式にあると言ってよいように思う。紫式部が 当時において 社会思想者(対関係の現実的主体)としては 挫折を味わったとしても 市民社会学者としては 源氏物語の創造において 成功したと見てよいように思う。観念の――しかし現実性としての――《出世間》主体であることが 市民社会学の探求者である。《歴史のかまど》としての市民社会を描き得たとしていいであろう。
煩をいとわないならば われわれは 任意に 市民社会学者としてのマルクスあるいはエンゲルスを引き合いに出すことが出来る。
(つづく→2006-07-26 - caguirofie060726)