caguirofie

哲学いろいろ

#33

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十二章a 愛の問題

いったい 無規律の性交とはどういうことなのか。――とF.エンゲルスは書いている。
現在または以前の時期におこなわれる禁制の障壁がおこなわれていなかった ということである。
家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して (岩波文庫 白 128-8)1884 〈第二章 家族〉)

さらに 《嫉妬という障壁が成り立たないことは すでにみたところである。なにはともあれ 嫉妬がかなりのちに発達した感情でることはたしかである。・・・》とつづけて かれは 時に 現代人に挑戦的である。
このような・時に挑戦的な 愛の問題の扱い方に対しては この時代から現代に至るまで 十分に批判的な議論も出されている。
議論の以前に このエンゲルスの方法に対しては 肌の合わなさを感じるのではあるまいか。性交と規律とを はじめにからめて 無規律のそれというふうに論じても 話は進まないだろうし また 嫉妬は ふつうの人間としての感情であるように思われる。この点 ゆえにここでは 詳論しない。
ただ 縄文人的知性が問題となるという限りでは このエンゲルスの議論の――内容ではなく――調子が 根強いものであって これにかんしては一般的に議論を展開させなければならないかも知れない。
おそらく人は 或る禁制の有無によって 時代や歴史を分けることは 皮相な見方だと言うであろう。禁制の自覚の有無といういま一つ別の基準でも 人間の理性は納得しない。そうして 上に少し触れたように むしろこの点は 人間の感性こそが証言し証明するものであると踏んだほうがよいかも知れない。この感性はまた 《嫉妬》が 或る一つの関係に対して 対抗的でその否定的な感情であるなら――つまり あるから(つまり そういうほどに それは《かなりのちに発達した》ものであるとも言いうる)―― 要するに 日常のふつうの生活原理としての感性 であると言わなければなるまい。
このような感性をわれわれは 信じうる。そして前史の感情(欲望の肯定論と否定論と)としての生活も 愛であるなら――つまり前史の内に 後史の愛が潜んでいるとするなら―― 上のように言い難きところではたらく感情も 愛であるだろう。いま 単純にエンゲルスの立論を言いかえておくなら 

人は 時に縄文人の生活に見られたかも知れない無自覚的な無規律の性交に対して そこから――余剰の生産物の活用といった生活の新しい発足とともに―― 愛を非常に正しく知って 経済生活じょうの交換価値の関係に入りつつも 人間じしんを余剰としない一般のおよび性としての人間関係を結ぼうということになった。禁制はそのあと出来たものである。

と。余剰の活用を考えた知性も 前史の愛またはその感覚から出てその感性をたずさえていたであろうように 愛の理性も 感性をたずさえているであろう。
問題をきれいごとに終わらせないためには じつに縄文人的知性との闘いが 生活の日常となるのである。

人間の性生活のこの端緒段階を否認することが 最近では流行となった。人類にはこうした《恥辱》をかかせまいというのである。
エンゲルス:(家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して (岩波文庫 白 128-8) 第二章)

というようにではなく あのスサノヲが 破廉恥なまでの愚行を避けなかったように 前史から出たわれわれは 《恥辱》をいづれ知っており これにむしろ弱い存在であるゆえ 強い人が 挑発的な知性の理論を掲げるとき これに闘いをいどまざるを得ないのである。
人間の感性あるいは理性は 破廉恥な行為に対して眉をひそめ あるいは目を覆い あるいは軽蔑のしぐさをとる。ところが この理性(精神)あるいは感性は 或る見方から言って 禁制をし知っているゆえ これを基準として強き判断のもとに これをおこなうのである。ごく普通の破廉恥な行為に対しては 弱き精神も 同じようであろうが 時に 待ったなしの破廉恥な行為に出会うと 強き精神が 禁制であるとか倫理を基準として 強き判断行為をもって対処するのに対して 弱き精神は むしろ感性的に顔をあからめるのである。強き倫理的な判断行為は 人間の理性と感性がおこなうのであるが 顔をあからめる感性的行為 これは人はどのようにおこなうのであろうか。
人は よし顔をあからめようと思い この判断のもとに そうするのであろうか。しかしかれは そうではないばかりか 軽蔑の態度をももはや取り得ないような困惑に陥るのである。困惑によって 理性が眠るのではない。なお 顔をあからめたという感性が存続しているように 理性的に事態をまづ見守る。いや 時間的な順序とは関係なく すでに初めの例えば《泣きいさちる》行為のように はじめの赤面という感性的行為そのものにおいて 相手を批判し 破廉恥行為を糾弾していると言ったほうがよい。
このようにこそ 禁制と道徳〔による強き精神の判断〕を超えたとも言うべき感性は はたらくと言わなければなるまい。おそらく そのあと 相手側も何らかのかたちで落ち着きを取り戻し 理性的に事を処理するという方向に向かうであろう。
このような人間の科学を 歴史の点検をつうじて 人間のものとしなければならない。愛の王国そものとしてではないが 一般に愛の問題なのである。またわれわれは 愛の王国とは何かこれだと示してみせることは出来ない。それは信じているのである。いやむしろ 信じさせているのである。これは愛の過程的にして動態の問題であるにほかならない。
この意味てわれわれ〔の愛〕は 縄文人的知性によってこの交換経済社会の矛盾を超える強き精神と つねにからまっている。

言いかえると われわれは ふつうの日常生活(経済活動を基本的に含めよ)において この交換価値の貸借関係の中で 矛盾を作為的にさえおこなって 自己をその支配的な立ち場にもって行こうとする人びとの行為 これに対してはまだ 或る種の仕方で容易に 寛容でいられる。けれども この矛盾を ありもしない地点から ありもしない人間の像をもって 解消っせようとする――そのような議論を提出する――人びとの行為 これに対しては じっさいゆるし難い憎しみを覚えるのである。理性を超えた理性としての感性が――むしろ感性が――はたらくと われわれは考える。
われわれは 弥生人の交換経済社会の或る意味で経験的な法則 これにべったりとついて k行動しているわけではない。そして それにべったりのキャピタリストに対して 或る意味で寛容でいることは たやすい。家持のように歌をうたわなくとも 生活原理の感性が保証している。だが この生活原理に挑戦し われわれの弱さを挑発する知性 これに対して寛容でいるのは 非常にむつかしい。わたしは或る意味では これに輪をかけるように エンゲルスの文章などと引用してしまったが われわれの闘いとは これの訓練( discipline =学問)なのであると言ってはばからない。そして この試練は あの感性を眠りに陥らせるためにやるのではなく(と言っても 訓練じたいが 生活の過程にほかならないが) 感性の愛の確立のためであることは 言うを俟たない。スサノヲは 自身ハレンチなおこないへみちびかれなければならなかったが われわれは オホクニヌシと同じようにそれらから放免されており かつ ハレンチな行為をむしろ直視しなければならないという闘いの段階にある。
われわれの弱き精神は 交換経済社会の王者とも言うべき前史的愛としての資本関係者に対して 時に寛容でいられるというほどにこの前史に寄留して滞留しているが それは停滞してしまったのではないというほどに 諦めというものはこれを知らないはづである。諦めの美徳を説くことも 縄文人的知性の催眠術であることをよく知っている。《資本主義というほどに前史的愛の支配に対して 寛容でいるべきではない いわゆる革命を起こせ》と説く者も 同じくそのように行動的催眠術師のごとき縄文人的知性であることをよく知っている。
言いかえるとわれわれは 縄文人的知性いわゆる悪魔が あのこの上ない感性の愛にみづからを変身させることを知らないわけではない。かれらの術策を知らないわけではない。そうして 悪魔は 本心からうそをつく。ありもしない人間を上手に描いて見せ これへと人びとを渡す。おのづから。自然によって。愛によって。かれらはちょうど《一人で死ぬのは怖い。だれか道づれはいないか》と言っているようなものである。これは あたかも堕落した女の言い草に同じい。《一緒に死んで》と。

ピレネーの山中の牧夫小屋では――と同じく犬養道子は書いている―― 何百キロ平方の放牧場の羊や牛を一日じゅう見まわって崖から落ちやしないか 谷川に流されやしないかと気をつけて走りまわる犬。一家そろって働きに出ている間じゅう 赤児のゆりかごをゆらし 赤児を見守る犬。
面白いことには ゆりかごのためには雌犬がいい。幼い羊や生まれたての仔牛を守るにはやはり雌がいい。が 谷から崖に走りぬけ まだまだ大森林の奥にはひそむ荒々しい狼犬などとまかりまちがえば一戦交えても牛を守るといった役には雄犬がいい――と聞かされた。
雌犬は動作も何となくやさしくて赤児の眠りをさまたげないし 一匹の仔を生んだことのない雌であってもどこかしらに《母性的な》気くばりがあると 祖先代々 赤児のお守りは犬にまかせて安心し切って生活して来たという ピレネーの牧夫は言った。その物語の間じゅう 人にたとえれば八頭身の モデルのように楚々とした美しいコリー犬は 前肢でゆっくり ゆりかごを動かしていた。
《じいさんの時代だったがね》
と牧夫は言葉をつづけた。
《腹をすかせた狼の群が――それは不作の冬だったね――この小屋を襲ったんでさ。小さな よちよち歩きの孫――このわっしでさ――と 生まれて半年の妹がいたんでがす。そして そこにいるその犬のひい祖母さんか何かが守りと留守役だったんで。風で戸がバタンと開きゃ 立っていって閉める。わっしが火の燃える炉に近づきすぎればひっぱる。りこうなヤツでしたわ。その犬が 狼のなだれ込んだとき まづ飛びかかる前に 赤児のゆりかごを背にして 人ならさしづめ大手をひろげて立ちはだかったね。そしてすくみ上ったわっしの方に ヒイヒイとうなって わたしのうしろにかくれなさいと呼んだものだ。わっしにはその犬が 母親に見えたね》
犬は死んだ。が ただならぬ吠えと狼のうなりをはるかに聞いて飛んで来た牧夫は 無事でかすり傷ひとつ負っていない二人の子供を見出した。
《本能さね》
と牧夫は言葉を結んだ。
《女性の本能さね》
私にはその話が実によくわかった。三十年 犬(複数)を飼いつづけ 犬と共に家の中で暮した経験からわかったのである。
犬養道子男対女 (1975年) 〈たくみ〉)

著者の犬養道子は 女性論として 男女の機会的平等に異を唱えて この話を語っているのであるが われわれは――事をあまりにも美化すべきではないが―― あの本能としても捉えられるかの感性的理性の力を語る上で引き合いに出した。
こうしてわたしには 無規律の性交から人は 禁制によって脱したのではない それは あの堕落した女や男のうちにも働く或る愛と同じ本能的・感性的な動きの中から その姿を現わしてきたものだと考えたい気持ちに傾く。《一緒に死んで欲しい》という同じ愛の中から 向きを変えられてのように 新しい生活原理によって生きる愛へと回転せしめられるのであると。
片や堕落した人間に対して 片や絶対に堕落しない強き縄文人的知性は この愛を 理性的に獲得できると言ったのである。わたしについて来なさいと。かれらも 何ものかによって この感性と愛へ自らが高揚せしめられたのである。しかるがゆえに わたしの下で人びとよ眠りなさい と言うとき われわれはこれに警戒してついて行かないように注意しなければならない。
そうしてわたしも 何の臆面もなく 読者を闘い(訓練=学問)へ促すのである。何の権威によって? 何の権威もない。だが この議論をつづけたい。


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(つづく→2007-05-19 - caguirofie070519)