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哲学いろいろ

滝澤武人:《人間イエス》

(1997 講談社現代新書

ほかに

イエスの現場―苦しみの共有 (SEKAISHISO SEMINAR)

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マルコの世界―イエス主義の源流

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悪人正機説について

滝澤武人が 次の説を紹介している。

都の知識人親鸞が 流罪後 越後・東国の被差別民と接し 彼等の悲惨な状況に同上する段階を越え 彼等とともに怒り悲しむ段階をも さらに越え 彼等が持つ《まことのこころ》を認識できる地点に到達するまでには 彼等と気を許し合って語れる言葉を身につける事から始まって(当時の方言の差は 現代の比ではなかったであろう) 血のにじむような肉体の変革があったはずである。法然からも独自な親鸞の思想の形成は・・・三十五歳の流罪後十七年である。活躍盛りの年齢に当たるこの十数年の 親鸞伝の空白にこそ 被差別民と接して再生する親鸞の苦闘の重さがひそんでいるのである。


 被差別民の歴史的存在は 親鸞思想の《対象》ではなく根源であり それを人類的存在として認識し 普遍化したのである。他の誰かを救う力が 被差別民も救うのではない。被差別民を救う力こそが 全ての人を救い得るのである。・・・親鸞の思想は 《悪人》とされた被差別民のみではなく 《悪人》という類的人間の本質に目覚めたならば 被差別民以外の人々にも 中間層・上流階級の人々にも ひろく受け入れられる可能性があった と言うべきである。
 (河田光夫:親鸞の思想と被差別民 (河田光夫著作集)

親鸞の思想と被差別民 (河田光夫著作集)

親鸞の思想と被差別民 (河田光夫著作集)

わたしの考えは 最近 次のようになっていたが これと突き合わせなければいけない。

いろんな見方が自由に出来るということのために つづります。

 悪人正機説は 現代においては もう 意義がありません。
 《悪人》がもういないからです。
 
 悪をおこなっているというなら ほとんとすべての人があてはまると思いますが 今では 根っからの悪人は 見えなくなりました。その意味は 人としての存在が 確立されたからです。そうでなければ 人一人ひとりに主権がある(民主主義)とか そのおこないに対して個人として責任を負う(自由意志の問題)とか このような思想も まだ 時期尚早であると反対されてもよいからです。
 人は 部分的に 悪をおこなっている。自分の責任でおこない 答責性を免れることはない。

 そうしますと 悪人こそが正機であるという考え方は それほど意味を持たなくなったのです。それとして おおきな思想だと考えますが 現代人にとっては 悪人(またそのような自己認識)も善人もその区別が 成仏あるいは救いにとって それほどの意味を持たない こう言えるのではないでしょうか。

 もしその意を汲んで この思想をさらに発展させようと思えば 

   死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
   死よ、お前のとげはどこにあるのか。
    (イザヤ書25:8(意訳))

   死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
    (コリント前書15:55−56)

   
というように 《律法》つまり規範が 問題だという見方も出てくるのではないでしょうか。悪なら悪 善なら善という規定によって それが罪の力となる場合があるのではないかというものです。どうせ死ぬ身なのだからという解釈が 悪人を言うにしろ悪人の自覚を言うにしろそのような倫理規範を凌駕して 現代市民というふつうのホモ・サピエンスの立ち場を ゆるがせるに至るかも知れない。
 罪にしろ悪にしろ 死のとげについての自己省察の結果として なおまだ 人間としてのはからいが 後を絶たないという別種の問題もあるのではないでしょうか。

 まだ熟さないと言わなければならないかも知れません。