caguirofie

哲学いろいろ

#46

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−4(つづき)

《普遍的な出発点とそこからの多義的な踏み出し》は すでに 獲得されたと言って 批判するのをよすならば 山口はここで そのあとの段階の問題として 《〈哄笑〉の宇宙》の実践を――たとえば 《よろこびなさい》として―― 論じようというのである。天皇制が 供犠文化の構造有力として まだ一人ひとりの中に巣食っているとは言ってもいるのであるが。だが このことにしても 新しい出発点をおさえた上で また ありうることである。こう解釈した上で 話しをすすめてみなければならない。獲得されたものは 不断の実践によって保持し進めるのだと 言いたいわけだと解釈するわけである。そこまでの幅は あるわけである。
だが そうは解釈してみるものの このような一つの締めくくりに――文学的に――表わされた議論をとりあげていては らちが開かないかも知れない。まさに実質的な議論内容を――それは きわめて過程的であって 山口昌男にあって そのひとまとまりが長いが―― とりあげてみなければならないかも知れない。そうして いま言えることは 何とかの一つ覚えとしてのように繰り返すのだが その内容にたち至るときにも はじめに吟味してみなければならないこととして じつは 《天皇制が日本的精神空間の光と闇を抱えることによって 反日常的心意を自らの軌跡の上に絶えずからめとる構造を持っている》としても 新しい日本人においては やはりこれが逆転した歴史経験を経てきていることである。
《日本的精神空間の光と闇が ともかく日本国憲法〔の時代〕として 天皇制なら天皇制を抱える》かたちをとったのである。この逆転を初めに吟味して確認した上ででなければならない。そうでないとは言わせない。言うなら 違憲行為である。ぶっそうなことを言わずとも つまり国民一人ひとりに主権がある。
これが 揚げ足取りであったり空論であったりしないその証拠には 山口じしんがこのように 供犠文化構造の残存を 天皇制としてとらえるそのわけが 憲法に表わした一つの踏み出し地点としての表現行為の確立のゆえに それの再逆転する可能性があるのではないかというものだからである。そのほかには 考えられない。
わたしも――わたしの読者の多くとともに―― 少々あたまがおかしくなってきたようだが 話しはまだその先がある。すなわち ところが 《反日常的な心意を 自らの軌跡の上に絶えずからめとる構造を持っている》のは ひとり旧い天皇制とよばなければならない社会のあり方に限られず どこにもあることである。いまの法治社会を前提にしても 幸か不幸か ほとんど同じである。《反日常的》というのならばである。《非》ではなく《反》というのならば。あるいは 山口は反論して それは《心意》だから 法に触れないし また 心意が 反日常的なものさえ 容易にからめとられるその供犠構造こそが 問題だというのかも知れない。わかるような気もすると同時に これをおしすすめるなら 結局そこまでいくと――そこまでくると―― もう事は 個人個人の精神(生活態度)の問題にしかならない。内政干渉の――思想統制の――おそれが出てくる。個人個人の精神や思想が おそらく精神的に からめとられるような供犠構造をおさえ また これを禁制とすることによって むしろ思想統制をおこなう別の供犠構造へと 陥りかねない。《哄笑の宇宙》と言っていてもである。山口がこの議論を内政干渉にしないためには 天皇制ないしその供犠構造を 何か一つの仮想敵としないことが 必要であろう。だからわれわれは―― 一つの段階としてでも―― 象徴天皇をわれわれの社会生活およびその共同自治の中に抱える制度をとったのである。
言いかえると 旧い供犠文化の思考形式が まだまだ残っているかも知れない。だが 出発点だけではなく まづ初めの踏み出し地点としても そのように旧い土着文化の論理が残っているとして すましていて かまわないのである。これは 新しい歴史知性の文化の中にも この歴史知性じたいの二重構造化(つまりは 勤勉とそれに輪をかけたガリ勉)とあらためて 手を組んで 居残ったという見方である。このことは 疎外論とか物象化論として 大いに争われている。旧い偶像崇拝が 新しい歴史知性の段階で あらためて息を吹き返し たとえば物神礼拝として 手を組んでいると 分析し指摘してやれば それはそれで よいのである。われわれは 内政干渉できない。
すなわち 天皇制としてその旧い思考形態をとらえるのなら この《天皇制というのは 過去の遺物だ》と断定して しかるのちに 哄笑の宇宙の実践に切り換えていけばよいのである。踏み出し地点としてはであります。そしてもちろん その断定の根拠や内容を 必要条件として研究し明らかにするという作業も 考えられる。ただ ここでは それは出発点の議論に後戻りする。疎外論・物象化論は 念には念を入れて この議論にとりくんでいる。そしてもちろん歴史研究の一般も。
ここでは わざとねちっこく言わなければならないと思われることには わざわざ天皇制を持ち出すという場合には そういった踏み出しの姿勢が 転倒しているのである。少なくとも そのおそれがある。つまり はじめに わざわざ かかる《天皇制》なる遺物に 自分からすすんで からめとられて行って ようやく論陣を張っている嫌いがある。これはたしなみがない。次節である。
(つづく→2008-02-02 - caguirofie080202)