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哲学いろいろ

#37

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§9 住谷一彦『日本の意識―思想における人間の研究 (同時代ライブラリー)』 b

§9−2

批判の第二点は とうぜん 上の第一点から来る。
たしかに 真理と言ってしまえば それは 《神》と表現できなくはなく それが《個を超えた全体》とか《共同体自身》のことかどうかを別として われわれの〔思想の〕決定因であると まったく言えないことはない。あるいはわたしも そういう言い方をしているところがあるのだが この真理を しかしながら《三つの論理》の同時一体なる展開過程のあり方としてわれわれが表現した思想や理論そのものに おきかえることもできない。わたしも 真理を これこれ・あれそれの思想で 代表させたおぼえはない。住谷の場合 結局のよころ 決定因たる真理を 思想として――つまり 経験科学的に―― しかしその真理のまま 語ろうとする傾向があり しかもこの思想を 真理の代表物として 個人個人は その身におおいかぶらなければならないという口調(または 初めのそういう設定)が 見受けられると言わざるを得ない。
真理は われわれがそれを認識することがむつかしいし 認識したとしても うまく語れない。そうでなければ 経験科学は――自然科学を除いてか―― 要らない。だから 経験的な合理思考が われわれの〔対話の〕一つの判断基準である。主観的な 真実の認識と表現で われわれは語りあっていく。住谷ももちろん 経験科学者として そうしているのだが 問題は 人間の真実とそして真理とのつながりぐあいにある。このこと自体を主題にするとき それの語り方にある。住谷のばあい もともと真理が 語り口においても――だから直接に―― 大前提である。わたしも 直接 神を口にしなければならないときには しかしながら 一つには わたし個人として その主観の表明だとして 語るか もしくはもう一つに 構図による説明として語る。そうしてきたつもりである。住谷のばあい 自己の信じる神をことばにするとき それはむしろ確かに間接的であって そうして 真理がではなく 真理とわれわれとの関係という大前提が その設定のまますでに 自己の主観の表明の骨格となっている。そういう初めの想定が 終始その議論(主張内容)をおおっている。そうでなければ もう一つに たしかに この初めの想定(つまり真理が決定因であるということ)を 構図にして説明するのみだとも考えられるが しかも この説明構図は じっさいのところ 思想そのものとなっている。
いまの批判は 引用文の例示をしないで 書物全体を読んで 人びとは 判断してほしいといった あまり誉めたやり方でないものだけれど 抽象的に ひととおり考えておきたい。
そのあと 今いったような主観の表明(個人的な思想の主張)であると同時に こんどは この思想が 主観たちの総体すなわち共同体の全体〔の立ち場〕に 難なく 重なり むしろそれとしてあてはまるということになっている。たとえそれが 真実を言い当てていたとしても 個人思想の議論としては それではまづいと わたしは考えるものである。(ルウソの一般意志から個人意志を なくしたようなものか あるいは ちがうか)。話しは すべて こういった初めの想定で 進められていく。つまり 主観(個人)は 全体に後行するという大前提にも なっているのであって これがつねに大きく横たわっている。
この大前提が 真理を持ち出すことによって ただしそれを経験領域のことばで日本の意識として持ち出し また 経験現実の情況証拠を集めて人間の真実として補強することによって それらの限りで 納得のいかないものではないということになっている。ところが 大前提――つまり真理が われわれの決定因だという初めの想定――は 真理そのものではない。せいぜい人間の真実である。この大前提という枠組みの中で すべては――経験合理的に・まただから確かに歴史の真実として―― 捉えられるし 思想として表現される。だがこれは 一つの縮小構造ではないだろうか。個々の項目ごとの研究成果は 蓄積されていくわけである。また しかしそれが目的とされるならば 学問の進展としうことが 思想の・人間の出発点であるといったことだし 思想そのものとなっている。
われわれは どういうふうに語るかを問題にしている。そして またまた ここでも 縮小構造は それとしてたといそれが 一つの説明構図だと明言しなくとも 逆に人間の相対的な真実の表明ということからいけば けっしてこの縮小構造に人は 閉じ込められるのではなく それをこえて・つまりは 初めの大前提を超えて 真理に仕えこれを探究しているのだと 言えるのだから 話しは終わらない。
まづ 一つの縮小構造〔における議論=そして思想そのもの〕の例として くわしい内容紹介を端折ってしまうけれど 次の一文。

しかし 原因の《宮座》論を見た今の段階では 河上が指摘した《国家教》における国家と神と天皇三者の関係は まさしく《村》における村と氏神と当屋の関係と ぴったり照応していることが分かるでしょう。
村は氏子全体であり 国家は国民全体と同格なのです。神はこの《全体》を象徴する聖なる存在者として《村》を代表し 同じ論理でまた 《国家》を代表する。

  • いちいちの批評は控えよう。批判はあとまわしにする。

そして《当屋》あるいは《天皇》は 神に仕え それを背負うて氏子もしくは国民に神として臨むことになります。すなわち 日本の社会では《村》が原田のいう意味での《宮座》であり続けるかぎり 河上のいう《国家教》が形成されてくる根基は決して消滅することなく 絶えず何らかのかたちで自らの《依り代》を つまりシンボルを その生活の場のなかに求めつづけることでしょう。
(住谷一彦:日本の意識―思想における人間の研究 (同時代ライブラリー) 最後の章の〈小括〉)

これは 《真理が 個を超える全体として 個を決定する》という一つの大前提・その枠組みの中で こういう日本の歴史の一端が 捉えられるということを 物語ると考えられる。大前提をあてはめるならば そういう一つの見かたもできるのかも知れない。(中世日本人の《公事》は その《公》を 実在の公人にも 直結させ 一つの見かたとして この公人を利用した)。大前提をそのまま実際の歴史社会にあてはめてよいかどうかを別としても これはむしろ 大前提――つまり 真理と人間個人との関係〔の想定〕――にかんする経験科学的な・しかし神学なのではないでしょうか。
つまり 個人としての人間に対してだけではなく 一個の全体たる社会に対しても 真理が決定要因となる〔その情況証拠は あげられる〕と言おうとしている。これは 情況証拠とかその証拠能力の問題ではなく はじめの出発点の想定の問題である。研究内容のいかんを問わず はじめの信仰内容が まづ自分自身において 問われている。つまり 基本的に そういうたぐいの議論である。
そして 大前提は 真理そのものではない。もし すべてがこの一例やその他の情況証拠たる議論内容のとおりだとしたなら 人は――つまりまづその発言者たる住谷は―― これによって われわれは 真理を信じるべしという結論をみちびき これを明言しなければいけない。そうして 一つの議論が閉じられる。われわれは 大前提〔やその論証事実〕を信じるのではないから。
だから 次に語り口の問題に移る。
(つづく→2008-01-24 - caguirofie080124)