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哲学いろいろ

#38

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§9 住谷一彦『日本の意識―思想における人間の研究 (同時代ライブラリー)』 c

§9−2(つづき)

だから 次に語り口の問題に移る。――つまり そういう結論の結論は 言わずもがなのこととして 実際には間接的に論じられたという見方も成り立つかも知れないから。――もう少し上の縮小構造の問題で補っていうとすれば そのような縮小構造たる一つの観点を大前提として 歴史や社会を・すなわちここでは日本社会を 捉えるなら 上のように 《村における 村と氏神と当屋(当番)の関係だとか それに照応するところの国家における 国家と神と天皇三者の関係》が とりあえず日本人の過去の真実として うかがえる。よって――よって―― この縮小構造という説明手段の さらに初めの中核となっていた真理 これが われわれの決定因だと 結論しなければならない。そういうたぐいの議論だったのだ。
これにもう一点つけ加えるなら よって真理は不変だが 経験現実としての社会の形態・動態は 歴史とともに――つまり個人個人の 決定因との関係における新しい生活態度の推進から始めて―― 変化すると 結論しなければならない。そういう性質の議論なのである。その結果 つまりは議論内容そのものは ここでわれわれは まだ問うていない。
語り口の問題としては やはり要領を得ない引用になるかも分からないが 次の一文について 括弧(*)内はわたしの注釈です。

すなわち いま西欧の・・・《人格》教育 《個人》主義を育成 助長した主たる要因の一つとしてキリスト教をあげるとき その核であるキリスト教の神が《人格》神であったことに対応するものは 日本の場合 おそらくこれまで縷々述べてきたあの《村》の氏神祭祀であって その信仰の核である神がまさしく河上のいう意味での《国格》神であった・・・。
この問題局面が孕む文化的意義について 日本の生んだ世界的なキリスト者である内村鑑三は すでに《余はいかにしてキリスト者となりしか》の中でいち早く鋭く把えておりました。(*以下が 語り口の問題であります)。
それはすでにキリスト者となった内村にとっては正に全体として否定される対象ではあったのですが(*――このことから 上の縮小構造の問題は わたしの見方が 住谷の必ずしも明言しなかったそれに 議論の展開から行く限りであてはまっているとも考えられる――) やや逆説的ながらも それこそはまた彼の《宗教的感受性》を培った精神的基盤であり 彼の良心をギリギリのところにまで追いつめていくことを可能にし得たほどの力を秘めていたとみることができるのです。(* この点は 馬淵の提示した《(二) 土着文化に内在する論理》にかかわるものであり もちろんまた同時一体の《三つの論理》にもかかわると言わなければならないのですが 上で住谷が 《全体として否定される対象であった》と明言するからには 全体としては 捨ててもよい旧い土着文化のみであったと 言っているといってよい。つまり 《この〔旧い日本社会の〕問題局面が孕む文化的意義》は 基本的にゼロだと言ったことにもなっている)。

私は信じていた しかも心から信じていた 無数の神社の一つ一つにそれぞれ神が住んでいて 各自の管轄区をゆだんなく守り その神の不興を買う者は 誰にせよ たちどころに罰せられるということを。
(内田芳明編:内村鑑三集)

もとより彼はこの神を白狐あるいは黒がらす等々具体的なイメージで理解し 八百万の神々として把えてはおりますが それは彼の心をつかんで離さぬ倫理的な神だったのです。・・・
(住谷一彦:同上箇所)

要するにこうして――ゆくゆくは―― 真理がわれわれの決定因だということを 語ろうとしている。社会の形態や民俗のあり方としては こういう過去の時代をわれわれは くぐり抜けてきたと言おうとしている。そして そうだということが 語り口の問題だと思われるのである。そうだとはっきり言うことが 思想の問題だと思うのである。民俗学民族学も その思想のありかを問うなら これと同じ方向・同じ志向だと 考えられるのである。そういった文化人類学は 歴史の基礎事実を 認識していこうとするわけである。つまり 住谷の語り口は その語り口とはじめの大前提との関連が 問題である。どっちつかずにも なっているのではないだろうか。
語り口を大事にするなら 内村なら内村に即しての《三つの論理》の同時一体なる個人思想の展開過程 これを 一つの中心として叙述しているであろうし 大前提のほうをきちんとつらぬくなら すでにつねに 内村の例などは いまでは過去の出来事だと はっきりさせるところまで言っておくべきである。あるいは その内村の例で 出発点・しかも個人の出発点を 取り出して提示するというのなら おそらく一つに 土着文化(氏神信仰)に内在する論理は しかしながら これまた 決定因としての真理が 類型的に情況証拠の中に 取り上げられただけなのであり――しかも 《白狐や黒がらす》は 《全体として否定される対象であった》のだから そこまで はっきりさせるべきだろうし―― もう一つに しかしながら 《倫理的な神》と真理との異同をも はっきりさせるべきではないだろうか。それとも この《内村の心をつかんで離さぬ倫理的な神》というのは はじめに想定された大前提すなわちここでは《真理と内村個人との関係》そのものだと いうことなのであろうか。
もしそうだとしたなら 大前提そのものが 神ではないのだから 《わたしは つまり住谷一彦なるわたしは この内村の例をとおして 神を信じる》という結論がみちびかれるのだとまで 言い及ぶべきであった。だが――その議論内容をいまは問うていないが―― わたしの見るところ 住谷はこの議論はもうそれが はっきりしていて 人に対しても言わずもがなのことだと考えて 言わなかったのだとすると 〔きわめて微妙な問題なのだが〕かれは 《神を信じる》というこれまた今一つ別の大前提をめぐって 研究し論議してきているのであって 自分個人は神を――実地に現地市民として―― 信じ行動するということにかんしては 何も語らなかった。つまり 《〔一般に人が〕神を信じる》をめぐって議論することと 《自分はキリストの神を信じる》と語ることとは 別である。前者の行き方がとられており それはそれで 経験科学であってよいと思われるのであるが それだけだとすれば もう一度もとに戻って 自己個人の思想は何も述べないということなのであり しかも 述べたと言おうとするのであれば 無理がある。読者に 察して欲しいと 甘えているところがある。いま 主張内容いかんは 別として 議論するのである。
語り口および縮小構造 そして第一点での 何をねらいとするかの議論の性格づけ こういった諸点で 全体として どっちつかずになっているものと考える。個々の項目ごとの研究成果は 蓄積されるだろうけれど 全体として この書物は 人が扱いにくいものとなったのではないか。これは 著者として不親切だと考えるのである。
(つづく→2008-01-25 - caguirofie080125)