caguirofie

哲学いろいろ

#212

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第四十章 《愛は・・・すべてを忍び すべてを信じ すべてを望み すべてに耐えます》( 1Cor.13:4−7)

もはや紙幅も尽き キリスト史観にかんする基本的な理論は おおよそ述べ得たと思われる。その観想が生ある限り つづき そうしてこれについての理論も 歴史とともにつづくのだが 基本的な理論は いま ここまでである。
四部から成るこの書物は 一部ごとに原稿用紙にして約五百枚 つごう二千枚のスペースで述べるつもりであったが(初稿の計画のこと。《紙幅が尽きた》というのもこのことです。そこから 再考・再稿・再再稿で さらに五百枚ほど増えたけれども) あとがきに代えてこの最終の一節をつづることにしたいと思います。
キリスト・イエスを問い求め アウグスティヌスとともに 自己〔の史観〕を習練し みなさんとともに 現代の視点に立つことを願って つづって来たこの書物は 第三部のはじめで 《キリスト史観の直接的な開示》に及ぶとしながら まだ何も語っては来なかったともまづ告白しなければならないでしょう。ただ このことが 目的の性格から言って そのことでむしろ 目的は 一つの里程標として 果たし得たかとも思うそれです。そこで


しかし きみは――と自問しつつ 《あとがき》を述べるとすると――きみは ここで何を欲したか。どこへ向かって走って来たのか。
たとえば 《汝の道を行け そして 人びとの語るにまかせよ( Segui il tuo corso, e lascia dir le genti. )》とマルクスは唱えた。キリスト者であるきみは 《人びとの語るにまかせ なおこれを自己のなかに受け取りつつ 汝の道を行け》と唱えていただろうか。《汝の道》などという自己の人間にしたがう道が はたしてあったのだろうか。
それでは きみが先生と頼む人間キリスト・イエスは 父から《汝の道》を託されなかったのだろうか。託されたのだろうか。キリストの父への従順は きみのどんな従順なのであるか。
そもそも きみは人間として みづからかのお方に対して従順であることが可能だと思っていたのか。思ってはいなかったのか。
しかしきみは人間として 走らなければならなかった。欲しなければならなかった。きみが 愚かで弱くあることは 人びとの賢く強くあることではなかったのか。きみは そこに 至高の本質であられる神の恵みを見たのではなかったか。この仕事を仕事としてもしきみが託されていたのなら これを避けることができず逃げることはできず しかも避け逃げるべく この仕事に着手しそれを敢行して来たと言うのか。しかしそれが きみの意志の目的と休息であり 神の嘉みしたまうこの生であると なおも自己を誇っているのか。
きみは何を欲したのか。何を欲しているのか。
《愛するものは現在するであろう。欲するがままに生きることが真実となるであろう》というアマアガリの至福は きみには到達不可能ではなかったか。《何ごとも父がまづ為したまうのを見るのでなければ 〔欲することも〕為しえず》 したがってまた きみが愛をかたちづくりうるなどと思いあがっていたのか。しかしそれでも これへときみは燃え立たしめられたと言おうとでもするのか。
きみは そもそも何者なのだ?

まことに 主よ 私を裁きたまうのはあなたです。
《人間のうちに起こっていることを知る者は その人のうちにあるその人の霊よりほかにはない》といわれますが 人間のうちにある人間の霊にすら知られていない何かが人間のうちにはあります。
アウグスティヌス:告白 10・5)

だから 《しかし主よ あなたは造りたまうた人間のうちにあるすべてのものを知りたまう》と言ってすませられる時代では もはやないのではないか。《神は死んだ》のではないか。
だからきみは 何者なのだ?
この問いかけを 問い求めつづけてというよりは もはやこれを回避して 回避するために きみは これをつづってきたのではなかったか。

科学の入り口には 地獄の入り口と同じように つぎの要求がかかげられなければならない。

ここでいっさいの優柔不断をすてなければならない。
臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ。

という《優柔不断》をむしろきみは 自己のものとして掲げて来たのではなかったか。しかしきみは それがもはや《臆病根性》ではなく 地獄の入り口の看板をも塗り替えるかのように 科学そのものを塗り替えようと図っていた そのことを知っていたのではなかったか。だからきみは 何者なのだ?
使徒パウロは言った。

わたしたちのことを人間的な動機で動いているとみなしている連中に対しては 勇敢に立ちむかうつもりです。・・・確かに わたしたちはこの世に生きています。しかし 人間的な動機で戦うのではありません。――わたしたちの戦いの武器は無力な人間の武器ではなく 神に由来する力であって要塞を破壊するほどのものです。
〔わたしたちは理屈を打ちやぶり 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ちたおし あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ また あなたたちの従順が完全なものになるとき どんな不従順でも罰する用意ができています〕。
パウロ:コリント後書10:2−6)

しかしきみは こう言いたいのか。いまや歴史的時間そのものが キリスト史観のうちにあって その方程式さえも あたかも人間そのもの(カール・マルクス)がこれに同一と化してのように 人間の理性にとって知解されうるように 人間の理論 人間のものとなった。《神は すべてをその足の下に服従させた》(詩編8:6)。《キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで くにを支配され》(コリント前書15:25)ているではないか。《あらゆる高慢 あらゆる思惑》は あたかも足の指のあいだからはみ出すようにしてアマガケリ しかもかれらは その損傷の癒される復活をこそ待っているではないか。不従順はみな すでに罰せられているではないか。きみはもはや 《神に由来する力 要塞を破壊するほどの力》 これを戦いの武器とするいうよりも この星を破壊するほどの力によっても打ち砕かれることのない永遠の生命を得たではないかと。もはや《人間的な動機によって戦》ってもよいではないかと。
しかしこのことが なおもこの地上にあって 人間的な動機の眼にも耳にも はなはだ愚かなものに映るということも きみは知っている。
さすれば きみは何を欲しているというのか。科学が塗り替えられるなら それできみは満足するか。やしろが衣替えをなすなら それできみは満足だというか。《妻籠みに八重垣作るその八重垣を》見るとき きみは満足か。なら 何をきみは欲しているのであるか。
《人間的な動機》によってでもよいというその戦いは 何に向かって戦うのか。そもそも戦う必要などあるのか。
ある。そもそも こう問いかけるきみのその高慢 自己を楽しませるそのきみの思惑 これに対して戦うべきではないのか。 
きみは このように言いたいのか。なにゆえ?
この高慢に対する昂ぶりは なにゆえなのか?
きみはそれが 愛だとでも言うのか。言いたいのか。なにゆえ?
そうである。なにゆえ?
きみはすでに あの至福の生を見たではないか。もうこの世とはおさらばすればいいではないか。
否。
しからば なにゆえ?
きみは 外交官パウロとともに こう言いたいのか。わたしは 誰にも隷属していない自由な者だが すべての人の奴隷になったと。できるだけ多くの人を得るためだと。ユダヤ人に対しては ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るため。律法に支配されている人に対しては きみ自身そうでないのだが 律法に支配されている人のようになったと。律法に支配されている人を得るために。また きみは実に神の律法を持っていないわけではなく キリストの律法に従っているが 律法を持たない人に対しては 律法を持たない人のようになった。律法を持たない人を得るためにと。弱い人に対しては 弱い人のようになった。弱い人を得るためと。すべての人に対してすべてのものになった。なんとかして何人でもよいからすくうためだと(コリント前書9:19−22)。
きみにそんなことができるのか。そもそもそんなことをする必要がどこにあるというのか。
福音のためなら わたしはどんなことでもする。それは わたしが福音の恵みにともにあづかる者となるためだ(コリント前書9:23)。
きみはそう答えるというのか。

(おわり――全四部のおわり)