caguirofie

哲学いろいろ

#210

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十九章a 愛の火はインタスサノヲイストたちによって

それ(章題の内容)以外にはありえないということである。
すなわち もはや共同観念的な社会形態 つまりナシオナリスムなる国家は そのあらゆる形態を展開し終えてのように その蜃気楼性をあらわしたのであるから かつての明治維新(幕末期の運動を言っているのではない)のように 上から 愛の火(たとえば 資本主義)がもたらされることはなく また あたかも第二の《天孫ホノニニギのミコト》が 愛の火(新しい政治思想)をもって タカチホの峰に降り来たるということもないということだ。しかし ホノニニギの統治思想は むしろすでに存在していたイヅモ八重垣の政治思想をまねて これをA圏九重から一つの観念の共同性としてうたい上げ A‐S連関体制という運河を築いたそれではなかったか。資本主義とは その経済・知解的な合理主義とともに むしろS圏八重垣の A圏スーパーヤシロに対する普遍的な愛の火ではなかったか。
ならば この《愛の火は インタスサノヲイストたちによって》というロマンティックな空想と夢が むしろ現実ではないのか。そうでないと言うには むしろ第一の死が死なないという火の池なる絶望を友とするあのアマテラス予備軍を必要とする。第一の死はむしろ上のロマンティックな(つまり 史観は 小説や物語であってよいというほどの意味だが)夢に復活するために われわれはこれを引き受けたのではなかったか。これが 単なる空想的な夢ではない証拠に 現代では――すなわち キャピタリスムとナシオナリスムとのあらゆる形態展開を終えてのように新しい段階を迎えていると思われる現代では―― 一つに 《劇場社会》あるいは《演技人》といった史観(これも史観であろう)が むしろアマテラス予備軍の側から提出されるに至っている。かれらは 雲の上の劇場社会を描き そこによそよそしいいドラマを演出する。かれらは 生きたドラマを展開し キリストの肢体としての・主の家としての劇場なるやしろを形作る。人格を意味するペルソナは 舞台にのぼる俳優がつける仮面のことであるから そうであってよい。一個のペルソナとして存在する人間は 三つのペルソナの一体なる神の 似像であるのだから 人間のペルソナ=人格を 不変絶対の本質とするほうが おかしい。アマテラス予備軍は 真実を言っているのである。
ただし 空気のような身体をもってである。タカマノハラA圏は つねにS圏トヨアシハラを模倣するのであるとするなら この《劇場社会 la société théatrale 》は すでに このヤシロに成立したことになる。《大祭司カヤパは 自分が何を言っているのか知らずに 〔神の言葉を〕預言した》のである。《祭司》とは 政治(まつりごと)を司るアマテラス予備軍ことのであることは 言うまでもない。神の律法を司る大祭司キリストのおかげで 外なるやしろ全体の歴史的時間 および 内なるやしろの歴史時間が 主の家(キュリアコンおよびエクレシア)をたしかなものとするべく このように――ユダやカヤパや総督ピラトを容れて――構造的になったのである。もしこれを見ないで 神秘的だと言う人は もっと神秘的である。



なおもマルクス固執するわけではありませんが 前章に掲げたかれの文章とその注釈にかんして 次の一点において疑問を持った方もおられると思い その点についてかんたんんい触れることにする。
マルクスの文章の背面において もしくはつまり マルクスその人(その個別的な生きた史観=信仰)のうちに 《〈〔人間という〕本質〉の本質>すなわち根源的な創造者をかれ自身 見ていたであろうとわれわれが推理したそのわけに関して 実は―― 一見すると 実は―― 引用した箇所の直前に かれはその文章で この《創造者》〔を観想しようとする視点〕を排除するかのように述べている。したがって それ(つまり わたしたちの前章の注釈)は 明らかに誤謬ではないかといった疑問 いや 批判についてであります。
しかしこれも ことさらの注意書きを 前章でもしなかったように 原文を読んでいただけば 氷解する疑念だと言えます。
すなわち一言でいって マルクスは 《創造主を観想する視点 つまり信仰》を排斥するのではなく いわば《絶対的n創造者を 共同に 観念する立ち場(われわれはこれを 便宜上 宗教という言葉で一括した。または 共同観念)》に対して あたかも絶対的な批判をおこなっているのだ。
簡単に このことに触れます。
マルクスが 《きみの問いはそれ自身 物象(つまりA語)の産物だ》として この宗教化形態を批判するのは 《その人が 自然と人間との想像について問うばあい このA語の世界でのみ〔その創造主を〕表象し思惟しているなら きみは人間と自然とを(――両者とも S語の世界がそれ自身の基体であり また A語は この基体のなかに・また基体によってこそ持たれるということであるのに 人間と自然とを――)捨象しているのだ》という論点によるからである。しかもマルクスは このA語が人間〔全体つまり史観〕において占める位置にかんして――つまり 観想は A語をとおして或るアマテラシテ象徴において行なわれ 理論はA語を用いて行なわれるのだが―― その重要性をないがしろにしてはいない。つまり 宗教化形態のなかにも その核として存在するところの〔・人間が用いるべきものとしての〕A語=普遍抽象的な概念を とうぜん捉えており これまでも無視したり排斥したいるするのではない。この普遍A語概念は 或る種の見方で 天使もしくは純粋思想である。この点にかんして

きみは(* その宗教を擁護する立ち場の人は)私(*=マルクス)にこう答弁することができる。


  ――私は自然等々の無を措定しようというのではない。(*つまり S語を排斥しようというのではない)。私が解剖学者に骨格の形成について質問したるするのと同様に 私はきみに自然の発生行為(* つまりあるいは 被造物の発生過程)について問うているのだ。


と。
マルクス:経済学・哲学草稿 3・2)

このあと 《しかし社会主義的人間にとって・・・》と前章に引用した一節がつづく。そしてそのように この上の一文によって相手(=宗教者)のうちにあって一般にも認めるべきものを認めた上で 《やしろ人・インタスサノヲイストは 自己の発生過程について直観的な 反対できない証明をもっているのだ》と受け答えするのである。
すなわちマルクスの立ち場は この宗教(それは 人間の自己疎外の一形態として考えられていた)の中にも 人間にとって本質的な契機(A語性)は見受けられるが これをも 自己の史観の内に・ないし 《直感的な 反対できない証明をもつ》というやはり信仰の内に 止揚して 用いるというにほかならない。《S者‐A者連関主体》なる人間にとって A者性が精神であるとするなら S者性はその基体である身体ということになる。われわれはそう言ったのであるが マルクスはこのことを 上の一文において 《A者性・A語は 人間の〈骨格〉である》と言ったのである。《この〈骨格〉であるA者性・A語を抜きにしては いくらS者が基体であるからと言って このスサノヲ者は ほんとうにアマテラス化つまりアマアガリは 出来ないではないか》と 《きみ=宗教者》は われわれに反駁することができると言うのである。
そのとおりなのであり それでもなおわれわれは――この点 マルクスとともに 《実践的にも理論的にも 感性的な意識(S者)から 出発する》と言うとともに―― 《精神・A者・A語によって 〈骨格〉を形成することは なお 肉にしたがって つまり〈S者から出発する〉のではなく S者にしたがって 骨格を形成することと同じである》と言うのであった。すなわち《両者とも 人間にしたがって 自己を起点として 史観を形成している》と言うのであった。骨格形成が いけないのではない。骨格=A者の形成をとおして その象徴(もしくは謎)=アマテラシテにおいて 史観つまり人間の全体がつくられる・変えられてゆくと聞いたのである。これは S者=身体の運動から出発している。
《愛の火》が 無感覚だというのは 健全ではない。しかしアマアガリするスサノヲ者は 《肉の情念において死ぬであろう》と言われた。つまり 一般には・外的には あの快活な畏れなる情念をもって 情欲なる感性はこれを一種の残像として保ち 個人的・内的には 対関係・家族の八重垣において 結婚の祝福が与えられてのように 情念の船が浮かぶのである。欲情のない生殖が 時として 実現するのである。


そこで夫は激情にそそのかされることなく 心の平静を乱さず 身体の丈夫さをこわすことなしに 妻の胎内に液を注いだ。さらに わたしたちは経験によって確かめられないとしても 身体のこれらの部分が 情熱のさわぎに左右されず むしろ必要に応じて 自発的な力によって結ばれたということを信じてならぬ理由はないのである。したがって そのとき夫の精液は 妻の処女性をこわさずにその子宮内に入ったが これは今日 同じく処女性をこわさずに処女の子宮から月経が流れ出るのと同じである。すなわち 精液は月経が出るのと同じ通路をとおって入って行く。ちょうど分娩にあたって 時が満ちれば陣痛が苦しまないでも 自然の衝動により女の胎が開くように 両方の性を結びつけて受精させるものは 欲情のもとめでなくて意志の働きなのである。
アウグスティヌス神の国について 14・26 〔第三部第七章第二節に引用〕)


しかしこれは 《身体を離れてではなく》《感性的な意識から出発して》である。聖霊なる愛の火が これを 容易に 可能ならしめる。このような共同主観が 時として 実現するのである。なんなら人は 人間(現実)が変わると考えるべきである。
いまは マルクスが《創造者》をほんとうに排斥していたかの問題であるが・・・
(つづく→2007-12-13 - caguirofie071213)