caguirofie

哲学いろいろ

#48

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第五節a 概念としての言葉に対する共同主観

この辺で一度 休憩にしたいと思います。
次の議論は 言葉の語源の問題がからみ この問題には必ずしも定説が用意されがたい部分が大きいと思われるため――単純に実情として そうであり―― 半ば珈琲を飲みながらの余談であります。


ここでは 《やしろ(原やしろ もしくは 社会全体)》の概念 したがって 《第一次やしろ》というときの《ヤシロ(S圏・市民社会 Susanowoschaft ←→スーパーヤシロ・A圏 Amaterasutum )》の疑念を 言葉の問題として扱ってみたいと思います。
日本語で《やしろ》というとき その意味はどうも《八・代(域・城)》ではないかとうたがってみます。
《しろ(域・城・代)》とは 大野晋によれば 《シル(領)の古い名詞形か。領有して他人に立ち入らせない一定の区域》が原義ではないかとの一解が出されています。(以下 日本語にかんする語源は 基本的に 大野晋の研究によります。むろん ここでは 言語学を問題とするのではなく 言葉といった一つの共同観念のものでもあるものを用いて 雑談風に 共同主観の論議をなすわけです。
《しろ(代)》には 別に 《本物に代わって 本物と同じ機能を果たすもの》という意味ありますが そしてこれを採ってもいいと思うのですが 上の第一のほう つまり 《苗代》といったように 《四方を限った区域》あるいは《とにかく一定の区域》を表わすと見て これを《やしろ》の《しろ》に重ね合わせて うたがってみます。
そうすると 《や(八)》が 古代日本人にとっての聖数であったことは 定説ですから 《八代》は 神(神聖)の領域としての人間社会であるととっても 一向に差し支えないのではないか。もとより 《代わり》という《しろ》としては その象徴的な形態(聖なる山や岩や木や またその区域)を十分 意味したであろうけれども。人間の社会が 《やしろ》であり このとき《八(神聖)》に重きを置いてみるときはまた 《八雲立つ出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を》の意味表示するものと重なるのを見ると言っておいてよいでしょう。
数も一定の概念を表わすということは 次のような事例が挙げられます。

《ひと(一)》は 個体としての人間つまり《ひと(人)》をそのまま表わしたのではないか。

  • 英語《 one 》なども 人を表わしうる。

その倍数である《ふた(二) Futa 》 は 《ひと Fitö 》の母音交替形であると考えられているので 人間の対(つい)の関係 特に 男と女の二人であたかも一つの愛の主体となるかのように 社会的に精神の一つの職務を分担するというときの関係を 概念としてよく表わすことになるのではないか。《み(三)》は その倍数《む(六)》と 母音交替形を表わすとされており 《み》は 《ひと(男)》と《ひと(女)》との対関係つまり《ふた》の 自然・社会的な第三角つまり子を表わすのではないか。
これが 対関係としての一つの愛の主体(夫婦)の《身体》の部分を表わすしるしと考えられればなお都合がよい。ただし 《身(み mï ← mö-i :む mö )》とは み( mi 三)は ちがうと言われる。
とりあえず 対(二角)関係とその第三角という一組み つまり 両親と一人の子との家族の核的なまとまり これを 《み(三)》が 概念として捉え これの倍数は 《む(六)》つまり 同じ類型的な概念のもとに 捉えられたのではないか。とうたがっておきます。
次に 《よ(四)》の母音交替形が やはりその倍数である《や(八)》であります。またこれらの語源は 一説としてではあっても 明確にしめされています。
《よ》は 《いよ・いよよ(愈)》と同根の語とされ これと同じく 《や》は 《や・いや(弥)》と同根とされます。これは あたかも 上に見た核的な単位の家族に さらに第二子つまりいまひとり別の第三角が すなわち総じて第四角が生まれ いよいよ・いや増しに発展すると言って捉えているかのごとくである。そのかぎりで おおきく言えば 栄華の象徴と捉えられたかも知れない。そういう意味で聖なる意味あいが伴なわれたのかも知れない。
それはともかく そのような概念とのかかわりなきにしもあらずのごとく この《よ(四)》と《や(八)》は 日本の古代市民たちの神聖数だとされているのでしょう。――その語例:大八州(おほやしま); 八尺(やさか)瓊(に)の勾玉; 八咫(やた)の鏡; 八千桙(やちほこ)の神; 八百万(やほよろづ); 八岐(やまた)の大蛇(をろち)など
これらが 《やよい(弥生・いやおひ)》――これは 《三月》ですが――の概念とどこかでつながっているのであろうと思われます。
《い(五) / なな(七) / ここの(九) / とを(十)》については省略します。(最後を除いて はっきりしません)。

さて やしろが 八域として 神の 代(似像)としての人間社会を――そして 神社は 素朴に言って さらにその社会の象徴です―― 表わすとすると 当然のごとく 人間が 市民と公民とに分かれたとするならば 市民社会が《ヤシロ》であり 公民圏が《スーパーヤシロ》であるとしてよいように考えられます。
しかし ここでひるがえって このように《やしろ》の語義を詮索したのは その意図は実は 別のところにありました。もっともそんな大それたことではなく つまり 《やしろ》と《ヤシロ》とを ヨーロッパ人の言葉で どのように概念づけ表わすことができるか このことを考えておこうと思ったことです。発音が同じでは これではただ日本に固有の特殊な概念しかならないのではないか この問いの答えねばなりません。
ここでわたしは 結論として まづはじめの・いくらか抽象的な人間社会といった意味での《やしろ Yasiro 》を ヨーロッパの言葉では 《 Kuriakon(→ Kirche; churuch )》に そして 具体的な市民社会( socie´té susanowoïste; Susanowoschaft )を 同じく 《 ecclesia (→ église )》にそれぞれ 対応させたいのです。これらを 通念上の文字どおりに 両方とも《教会》と訳してしまっては 元も子もないのですが しかし 抽象的に言って 先に見た《神の区域》という概念をそれぞれに通底させれば よく整合すると思われるのです。
つまり こう考えるならば 問題は 双方とも《教会》と訳されている《キュリアコン(チャーチ)》と《エクレシア》が なぜ 前者は《やしろ Yasiro 》に 後者は《ヤシロ yasiro 》に 対応するのか このことに移ると思います。
まづ語義としては ギリシャ語《 Kuriakon 》とは 《主〔の家〕〕という意味であり 《 ecclesia 》とは 《召集された〔民会〕》という意味です。後者の《民会》は 都市国家の中において 必ずしも明確な一民族全体から成るナシオナリスムとしての《A圏‐S圏》連関体制を想定しなくともよく むしろ《S圏(ヤシロ)》の自治態勢(都市)としての共同自治の全体(または 代表)会議としてよいと思われます。
(つづく→2007-07-03 - caguirofie070703)