caguirofie

哲学いろいろ

#11

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

(出雲・八重垣神社(島根県松江市))

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第七章b なぜなら 男の女に対する関係が 関与不可能なそれを含んで そうであるから

――アウグスティヌスの同棲と離別・そこに見る共同主観――
だから スサノヲのミコトは

八雲立つ出雲八重垣
妻込みに(妻とともに)八重垣作る
その八重垣を
古事記 上つ巻)

とうたった。八重垣が 内的の内的に やしろのふところであり 内的に 家族(家庭)であり 外的に 《教会・民会》とよばれるエクレシアつまり自治態勢( mura )であり 外的の内的に 市民社会( Susanowoschaft )であり 外的の外的に 社会形態( Amaterasutum を含めた教会=キュリアコン)であり そのような全体として 人間=やしろであると考える。スサノヲは タカマノハラA圏(アマテラストゥーム)に譲歩して その空中の権能によって罪の共同自治を行なうA者に対しては 《八雲を立たせてもよい》と考えたのである。ともかく もっぱらのA者というのは われわれにとって 関与不可能者であるとの認識をとりあえず 表明したのである。
八雲立つ・・・》と自己のやしろをうたって 関係(国譲り)を保ち 関与への接触を保持した。いささかのおとぎ話ふうに言うと この《天の雲に乗って 〈人の子〉が力と大いなる栄光( doxa =憶測>共同主観)を帯びて 来る》(マタイ24:30)と考えられた。この希望に託された。この希望はかたちあるものではなく もちろん実体的にそうであるというのではなく そう語られるにふさわしいと共同主観されたというものである。それにすぎない。このような希望が実現するかに見えたときもあったであろうし また これを《A‐S連関体制》なるヤシロ形態に限っていえば 歴史的に大きくこの《国家》の形態的な移行・変革の問題が語られてきた現代の大きな課題であるとも考えられる。
わたしたちは必ずしも この形態移行の具体的な政策について語らないが(成案があるのではない) 基本的に方法として アマテラス予備軍のやしろにおける解放を 主題として考察している。なぜなら かれらこそが 精神=A者性として やしろのふところを観念し これをA語理論として説き明かそうとし ちょうどこれに対してもう一つの悪しき意志があると言ってこれを貶めてのように このかれらの《歴史伝統的な》A‐S連関体制なる罪の共同自治方式を 自己の命とさえして それに仕えているからである。悪しく言って 仕えているばあいも あるようだ。
要するに 《社会的諸関係の総和》たる《やしろ》が この《A(主導支配)‐S連関の体制》なる罪の共同自治《体》として 自己の内なるやしろだと かれらは 信じたし 言っている。このことは おそらく 鏡として 言いかえると A語客観信実として 真実であるだろう。言いかえると 《人間的本質は 何も抽象的なものではなくて 社会的諸関係の総体である》(フォイエルバッハに関するテーゼ)というマルクスの命題を いま在るがままの具体的現実として つまり この鏡そのものとして 自己のもとに受け取ったのであろう。ヤシロ資本連関(社会的諸関係の総和)が 歴史的つまり 時間的・偶有的にして可変的であり 《現実》そのものではなく その鏡つまり似像・仮りの像であることを 知らなかったというべきだと思われる。もしくは この知らない人びとに合わせて そのままを《現実》だと決めつけている。
この《国家》は 幻想であり しんきろうであり――国民としてでもその国民という市民そしてその国は 現実であり あるのだが しかも やしろ資本連関は いかに普遍概念でとらえたからと言っても その限りでA語による認識の像であり 鏡なのである―― A者予備軍は この蜃気楼の再生産主体であるとわれわれは 言ったことになる。学問と時に宗教が つまり今では《科学》が これらに雲の上の権威を賦与するかたちとなる。なぜなら たしかに A者性は 誰もが認めるように S者性より優れた人間の本質的な能力であり――だから その如何に修辞学的に立派に描かれた世界像も 神ではなく また人間の現実そのものではなく 神の賦与する人間的な光ではあり―― これをしかし 神としてこれに仕えようとするもっぱらのアマテラス者に対して スサノヲらは 一方で 譲歩しなければならなかったし 他方で それぞれアマアガリを信じて 八重垣なる共同主観をもって 関与していこうと判断したからである。しかし A‐S連関体制に譲歩した 言いかえると もっぱらのアマテラス者にそのA圏という生息域を与えたのは ほかならぬスサノヲ者らであった。
A者予備軍は これに どこまでも 甘えるのである。
限りなく 人間の知恵によって限りなく立派なアマテラス語をよく駆使する術を心得ている。実はおとなであるスサノヲ者らは これにだまされないとしても 八重垣なる愛の火に燃え立たしめられて 一歩ゆづりつつも 関与せざるをえない。ここまでが 八重垣=共同主観の 停滞ではなく 健康な滞留である。そのシレーネーの甘く切ない調べに魅せられて その罠にはまるなら A‐Sの倒立連関という停滞 また さまざまなコンプレックス(時間複合・錯綜)となる。顔をあからめるべき側が 顔をあからめなくなり 逆にスサノヲ者が 顔をあからめ 恥じ入ってしまい 相手側のアマテラス者は かれに 思いやりの暖かい言葉をかけてくるなどというまでの事態さえ繰り広げられる。
しかし これが 男(女)の女(男)に対する関係過程なのだ。われわれの言うのは このことであり この歴史的な動態の中に 真の自己をとらえ それぞれ独立主観において自己のアマアガリを問い求め見出していかなければいけないと言ってきたのである。これは 単に 個人個人の心の持ち方ひとつでは どうにもならないやはり《やしろ》総体の問題であると考えるのだが ほかならぬこの《やしろ》が あのファシズム全体主義の罠(もしくは試練)を通過しなければならなかったことによって 心の持ち方だけでも アマアガリ=復活が成ると言ってのように わたしたちは やしろ全体の構造と連動してのように すでに 死を引き受けていた そして実際 死んでいたのだと気づいたのである。
死ななければ もちろん 復活という共同主観も起こり得まい。外なるやしろシステムが変革されて初めて これに気づくというわけのものでもあるまい。個人の心構え主義なのではなく 心の持ち方から入ってゆくことは 可能だと考えられた。その心構えは 落涙・赤面などなどの身体の運動から入ったあとのはずである。
このようにして すでに自己のアマアガリを見出したスサノヲ者は まだなお かたくなに〔自分の従来の生き方を訂正するまいとしてどこまでも〕甘えてくるアマテラス予備軍である人びとに対して たしかにそのときには 〔譲歩しつつ〕かれらから遠去かるか 遠去からなければならないか もしくは その自己のアマアガリの確立のためのたしかに試練(十字架)であると考えなければいけないと考えられたのである。
解決を成就したと言おうというのではなく――また 正解を《客観》的に出そうというのでもなく―― まず解決の(もしくは 問い求めの)場を見出したと言おうというものである。
このとき たしかに 回心=アマアガリ=復活=スサノヲのアマテラス化=共同主観の確立などなどといったことは 言葉としては それらをわれわれが 単に知ることである。また 自由の王国といった概念も 同じくこれを知ることがらである。(どれだけ 理論体系化しても それは まだ ただ知ることである。もしそこに 信じるものがあると言うなら むしろそれは 主観のうちに・共同主観として 理論体系化の以前に 存在していると言うだろう)。
けれども これらは それとして知ることも有益だというほどに われわれが信じること(対象)ではない。だれも 自由の王国を信じよとかと言わないのである。これと同じように われわれは ウェーバー流の価値自由的な(または没価値的な)社会科学のやり方で 必然の王国中から 自由の王国が説かれてきたのだとか 必然の罪の法則の支配する国の中から アマアガリする人びとの神の国が現われるであろうとか 言わない。
それらは 信じることではなく ましてや そのようにこの必然の王国から空気のような身体をもって抜け出し 写真か何かに写すようにして その風景描写(エートスの分析)することによって やしろ資本連関をつまり自己を把握したということなのではなく ただ 知ることである。だから したがって 必然の王国の中から アマアガリするスサノヲの現われる(つまり 自己がそうなる)とともに その知解としての実践にあっては 自由の王国についての思惟も語られると言うことになる。ましてや これを 写真撮影することは 何も物語らない。
情欲といった必然の王国のことがらも そのようにして(自己の実践の過程として) 語られる場合もあるのであろう。それは ありうるし またしかも その解説はすべて必要ないであろう。あの写真撮影のようにいかにアマテラス語によって客観真実を言い当てていたとしても それらの解説は しんきろう覆いであることを免れない。これは 情欲ないし 男の女に対する関係といった より一層スサノヲ語にかかわる領域については かんたんに了解されるとしても 実際には 《アマアガリ》といった自己形成のこと もしくは やしろ行為全般のことについても 同じことなのであり 写真による解説はすべて ただ鏡を鏡であるにすぎないと知らずにその鏡を見ている客観抽象真実の つねに覆いになりうる蜃気楼だと知るものである。(このことの例示・論証を 追って わたしたちは 詳述するであろう。)。
(つづく→2007-01-04 - caguirofie070104)