caguirofie

哲学いろいろ

#49

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第五節b 概念としての言葉に対する共同主観

まづ語義としては ギリシャ語《 Kuriakon 》とは 《主〔の家〕〕という意味であり 《 ecclesia 》とは 《召集された〔民会〕》という意味です。後者の《民会》は 都市国家の中において 必ずしも明確な一民族全体から成るナシオナリスムとしての《A圏‐S圏》連関体制を想定しなくともよく むしろ《S圏(ヤシロ)》の自治態勢(都市)としての共同自治の全体(または 代表)会議としてよいと思われます。
ですから 現代の情況から言えば 諸自治態勢の連合と諸生産態勢の連関から成る(インタムライスム=インタキャピタリスムの基盤である)《ヤシロ(S圏)》を この《市民会議 ecclesia )》の語をもってあててよいのではないか。これが 共同観念を担わないわけではなく むしろその社会的な基礎でもあると考えるのですから これは 回りまわって 《主の家》である《キュリアコン Kuriakon 》=《やしろ Yasiro 》の 第一次領域としてよいのではないか。この意味での 概念的な対応をここで設定しておきたいと思うのです。

  • ただし 一点だけ注意しなければならないことは 《 Kuriakon 主の家》にしろ《 ecclesia スサノヲ圏の共同自治会議》にしろ そこに いわゆる《教会》として制度的な聖職者の組織を見る必要はいまはなく またこれとしてそのまま あてはめてはいけないということです。共同主観の内的な構造は 人間社会を まづ全体として《神の区域 Yasiro = Kuriakon ( church )》と捉え これの共同観念形態としての国家構成の中での基本的な領域は 《市民社会 yasiro = ecclesia ( église )》と捉えるということであり 一般にキリスト教会も キリスト史観において 概念的にはこう捉えたとも考え その中で聖職者性度としての教会は 共同主観者の実践過程における一つの手段であったと捉えることになります。

 

さて ここで残された問題は 次の点です。たとえば 《神の創造された区域》としての人間社会(キュリアコン / やしろ)が ここで言う《神の国》なのではなく 神の国は このキュリアコン(チャーチ)としての地上の国とその区域を重ね合わせるがごとくして そこに寄留し そして共同主観として むしろ市民社会(エクレシア / ヤシロ)の中に基盤を持って その圏もしくは全体の中から 新しいかたちを形成して起こるということ。
図式的にいえば キュリアコン(チャーチ)が 現代では 国家の全体つまり《A圏‐S圏》連関形態であり エクレシア(エグリーズ)は その中のS圏を意味表示します。キリスト史観が 共同主観として このS圏であるエクレシアを基盤として起こって 共同観念形態の全体を変える・つまり 国家形態を歴史的に移行させるというとき エクレシアとキュリアコンとの関係がどうなるのかという問題です。
もっとも この問題は すでに骨格としては 述べています。そこで やはりここでも これにかんして 唯物史観が関係してくると思われることには このエクレシアからの共同主観の生起を かれら自身 説いているからです。
曰く 《万国(諸共同観念形態・キュリアコン)の労働者(S圏・エクレシアの市民)よ 団結せよ》と。これは われわれの言うインタムライスム=インタキャピタリスムという共同主観の興隆とも採れるし また逆にかれらの側から われわれの説のほうこそ このスローガンの一解釈であると採られるかも知れない。
けれども もはや こう問題を提起しても お茶を飲みながらの余談風の議論であると言って差し支えないとも思います。方向は同じであるとは すでに述べていたからです。
ちなみに アウグスティヌスの認識は 次のようでありました。解釈を交えた訳語です。

共同主観はそれが――肉を着た人間のもの( susanowoïsme )として――この地上にあるとき すべての民族〔の共同観念〕の中から そのみづからのすがたを現わす。
This celestial society, while it is here on earth, increases itself out of all languages,...
神の国について 19・17 John Healeyの英訳)

マルクスが およそ一義的に エクレシアの中から起ち上がれと言うのに対して キュリアコンの中からの神の国(共同主観)の生起を 主観します。ですから これに対しては すでに述べたような事情のもとに 原理的なキュリアコン( Yasiro )は 具体的にその基盤としては エクレシア( yasiro )をその第一次的(第一義的)な領域とするだろうということを添えるなら 済むものと言ってよい。

  • たとえば象徴的に言って キュリアコンが国家体制として 《エクレシア(ヤシロ)‐スーパーヤシロ》の両圏に分かれて連関する場合には スーパーヤシロ〔の主導のもとにそこ〕にある靖国神社は エクレシアの神社でないばかりか キュリアコンじたいの神社ともならないであろう。つまりそれは スーパーヤシロ・アマテラス圏の神社なのであって キュリアコン・《やしろ》は 原理的に事実として 神の創造された領域であると言っているのであって この創造者の史観にあづかる共同主観者らの神の国は このキュリアコン全体の中から またそれは エクレシアの圏を基盤とするごとくこのエクレシアの中から むしろS圏第一主義(デモクラシ)として スサノヲイストとして 起こると言わねばならないでしょうから。靖国神社は S圏の各ムラの象徴的なヤシロに――むろん 信教の自由のもとに――言わばアマクダリさせて 祀るべきは祀ると考えるということは そのような趣旨として すでに述べました。第一部・§36。

以上は 休憩の余談です。
(つづく→2007-07-04 - caguirofie070704)