caguirofie

哲学いろいろ

#50

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第六節a 史観は共同主観であるということ

こういうわけで――と《ローマ書簡》のなかでパウロが述べているそのままを引用することがゆるされるとするならば(引用を地の文章とします)―― 兄弟たち 神のあわれみによってあなたたちに勧めます。自分自身を 神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとしてささげなさい。これこそ あなたたちのなすべき礼拝なのです。あなたたちはこの世に同化してはなりません。むしろ 考えを新たにして自分を変えていただき 何が神の御心であるか 何が善いこと 神に喜ばれること また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。


神から賜った恵みによって あなたたち一人ひとりに言います。実際の価値以上に自分を過大評価してはなりません。むしろ 神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎重に評価すべきです。というのは わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても すべての部分が同じ働きをしていないように わたしたちも数は多いが キリストに結ばれて一つの体を形造っており 各自は互いに部分なのです。わたしたちは 神から与えられた恵みによって それぞれ異なった賜物を持っていますから 預言の賜物を受けていれば 信仰に応じて預言し 奉仕の賜物を受けていれば 奉仕に専念しなさい。また教える人は教えに 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまずに施し 指導する人は熱心に指導し 慈善を行なう人は快く行ないなさい。
(ローマの信徒へのパウロの書簡 12:1−8)


兄弟たち わたしはあなたたちには 《霊の人》に対するように語ることができず 《肉の人》つまり キリストとの関係では乳飲み子である人びとに対するように語りました。わたしはあなたたちに乳を飲ませて 固い食物は与えませんでした。あい変わらず 《肉の人》だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上 あなたたちは《肉の人》であり 生まれながらの生き方で生活している ということになるのではないでしょうか。ある人が《わたしはパウロ派だ》と言い 他の人が《わたしはアポロ派だ》などと言っているのだとすれば あなたたちは ただの人間にしかすぎないではありませんか。そもそも アポロとは何者ですか。また パウロとは何者なのですか。この二人は あなたたちを信仰に導いた奉仕者でしかなく しかも それぞれに主がお与えになった分に応じて奉仕しただけのことです。わたしは植え アポロは水をやった。しかし 成長させたのは神です。ですから たいせつなのは 植える者でも水をやる者でもなく 成長させる神なのです。植える者と水をやる者とは 働きの上では同等ですが 各自 働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり あなたたちは神の畑 神の建物なのです。


わたしは 自分に与えられた神の恵みによって 熟練した建築家のように土台を据えました。そして 他の人がその上に家を建てています。ただ おのおの どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に 誰かが金 銀 宝石 木 草 わらで家を建てるばあい おのおのの仕事は明るみに出されます。《あの裁きの日》にそれは明らかにされるのです。なぜなら あの裁きの日が 火とともに現われ その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。誰かがその土台の上に建てた家が燃えずに残れば その人は報いを受けますが 燃え尽きてしまえば 損害を受けます。ただ その人は 火の中をくぐり抜けて来た者のように 救われるでしょう。あなたたちは自分が神の住まいで 神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の住まいを壊す者がいれば 神はその人を滅ぼされるでしょう。神の住まいは聖なるものだからです。そして あなたたちはこの神の住まいなのです。
(コリントの信徒へのパウロの第一の書簡 3:1−7)

  • 《あの裁きの日》が 共同主観的な現実でないと思われないように これがそれとともに現われると言われる《火》について アウグスティヌスは次のように講解しています。
  • 《その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味する》と言われますが それはあたかも 自己の〔他者との関係における〕主観形成において どうしても敵と呼ばざるを得ない他者に出遭ったばあい 次のように言われるその《炭火》と関連して 現実的なのであり

つまり このような主観形成の過程においては たとえば現実に 《〈復讐はわたしがすることであり わたしが報復する〉と主は言われた》というようにして 《自分で復讐せず 神の怒りに任せなさい》と言われるとき 《しかし 〈お前の敵が飢えていたら 食べさせ 渇いていたら 飲ませよ。そうすれば 燃える炭火を敵の頭に積むことになる〉(箴言25:21−22)とも書いてあります。悪に負けることなく むしろ 善をもって悪に勝ちなさい》ローマ書12:19−21)であり この《炭火》の現実性とも関連するのですが アウグスティヌスは 《火の中をくぐって来てすくわれる》という使徒の言葉の意味を註解するかたちで 次のようにむしろ《固い食物》をわたしたちに与えるように 述べます。

・・・《火の中をくぐってきて救われるだろう》という言葉は 《金や銀や宝石》によってではなく 《木や草やわら》によって建てる人びとについて言われているのである。というのは かれらは――あたかも火の中をくぐるようなことを通過しなければならないにかかわらず―― キリストという土台の功績のゆえに滅びないからである。

とまづ 基本的に提示して

さて 《木や草やわら》を この世のものに対する激しい欲望を指すものと理解して差しつかえない。たとえそれらの欲望が許容されるものだとしても この世のものは〔可変的であるから滅び わたしたちにとて失われるであろうが そのときそれでも〕魂の苦痛なしには 失われないのである。しかし この苦痛が火のように激しいときでも もしキリストが心の中で土台となっているならば――ということはつまり 何ものもかれにまさるものとされず またこのような苦痛を味わっている人が キリストよりも むしろそのように愛しているものを欠いているほうがよいと思うのであれば―― その人は火の中をくぐって救われるであろう〔と理解しなければならない〕。
だが もし試練の時にキリストよりも この種の一時的で現世的なものを保持したいと思う人があれば その人はキリストを土台として持っていないのである。

  • これを もちろん 唯物史観への批判として為しているのである。ただし 物質という第一質料なる超越者を信じているのならば 互いに対等であるかも知れない。――引用者。

というのは 建物のばあい 土台に先立つものはないのに かれはキリスト(つまりわれわれの存在の根拠としての人間でもあるキリスト)よりも これらのものを先としているからである。

  • 唯物史観は 一時的で現世的なもの・経済的なもの(質料)を《先としていない》。してい場合があるかも知れないが 物質という抽象的なものを先とするなら していない。また 人間の経済行為領域またはそれをスサノヲ圏(エクレシア・市民社会)と言ってよいかも知れないそれを 《土台》とするごとく 〔質料に先立つとされるそのみなもとの〕物質を《土台》とするようである。たとえこの唯物質論を認めたとしても この物質ないし質料に対する人間の視観が 主観を形成するのであって 永遠なるとされる物質そのものが 有限なる人間の主観を形成するのではない。唯物質史観とは このような――いい意味でも悪い意味でも――主観放棄による史観である。いい意味でとは 神に隷属する者となると言っているのだから キリスト史観と同じ類型だという意味である。悪い意味でとは 一般に 文字通り 主観放棄となって 経済事情であるとか その経験事実そのものに付いていってしまうことである。もしくは つねに将来すべきものとしてのみある主観 言いかえると あの現実の歴史的な《さばきの日》のあとに やっとはじめて 主観を〔再〕獲得するであろうという史観である。
  • 人間の自己形成――それ以外に 歴史はない――という《建物》のばあい われわれは キリストという模範を共同主観の土台として 共同観念的な現実の土台であるS圏エクレシア経済行為領域をもとにして この上に 神の国・主の家・キュリアコンを新しく建てるというようにして 寄留している。

使徒がこの所で語っている《火》は両者 すなわち《この土台の上に 金 銀 宝石を用いて建てる》者と 《木 草 わらを用いて建てる》者とがくぐり抜けるような火だと理解しなければならない。というのは かれは こう言ったのち 次のように付加しているからである。《その火は それぞれの仕事がどんなものであるかを ためすであろう。もしある人が 土台の上に建てた仕事がそのまま残れば その人は報酬を受けるが その仕事が焼けてしまえば 損失を被るであろう。しかしかれ自身は 火の中をくぐってきた者のようにではあるが 救われるであろう》。こういうわけで 火は両者の中の一方だけではなく 双方の仕事をためすのである。


苦難の試練もある種の火である。これについては他の所に 《炉は陶工の器をためし 苦難の試練は人をためす》(集会の書27:5)と明瞭に書いてある。この火は 使徒がすでに言っていることを この人生の期間内に果たす。それは たとえば次のような二人の信徒に起こるばあいである。
その一人というのは どうして神を喜ばせようかと神のことを思う者(コリント前書7:32)すなわち キリストという土台の上に金や銀や宝石で建てる者である。これに対して 他の一人というのは どうして妻を喜ばせようかとこの世のことを思う者 すなわち 同じ土台の上に木や草やわらで建てる者である。前者の仕事は焼けてしまうことはない。というのは かれは 失って苦しむようなものを愛さなかったからである。しかし後者の仕事は焼けてしまう。というのは 愛しながら所有していたものを失うことは 苦痛なしにはできないからである。
しかし後者とても どちらかを選ばねばならないときは キリストを捨てるよりも それらのものを捨てようと思うし また失うときにどんなに苦しくても それらのものを失うことを恐れて キリストを放棄するようなことはないから すくわれることに変わりはない。ただしそれは《火をくぐってきたような仕方で すくわれる》のである。というのは 愛していたものを失う苦痛がかれを焼くからである。しかしかれは確固として朽ちない土台によって守られているのであるから その苦痛によってくつがえされたり 焼きつくされることはない。
アウグスティヌス:信仰・希望・愛(エンキリディオン) 4・2〔2〕)

ですから 唯物史観は 後者すなわち 《木や草やわらで建てる者〔として 火をくぐって来た者のように すくわれること〕》の主観を 否定するようにして 放棄したのです。
(つづく→2007-07-05 - caguirofie070705)