caguirofie

哲学いろいろ

#37

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十三章c ふたたび 国家の問題

推測によると まづ最初に《光》がありました。それも現在知られている光だけではなく数多くの種類 少なくとも二四種類 ある説では四五種類 他の説ではそれ以上の種類の《光》であったと思われます。ここで《光》と呼ぶものは 私たちの知っている光と同様に スピンとして呼ばれる自転に似た量を一単位もち 光速度で飛び回る質量のない粒子ですが 若干異なるところもあります。
それは一つの《光》量子が二つの異種の《光》量子に分裂したり 逆に二つの異種の《光》量子がくっつきあって別の《光》量子になることができた点です。現在残っている光はただ一種類しかないため このような反応はおこりません。以後宇宙の初めにあった《光》を 《原始の光》と呼び 今日の光と区別することにします。
ここで考えているころには 《原始の光》の他に 何種類かの 少なくとも九〇種類 ある説では九六種類 他の説ではそれ以上の粒子が存在していたと推定されています。これらは私たちの知っている電子に似て スピンが二分の一単位の光速で飛びまわる質量のない粒子でした。今日私たちが観測する電子が一種類の電荷しかもたない点が 宇宙初期の粒子と異なります。光の場合と同様に この粒子を《原始の粒子》と呼ぶことにします。
(鈴木真彦・釜江常好:素粒子の世界 (1981年) (岩波新書)

そこで 《原始の光》から分かれて出来た《ほんものの光》と《ウィークボソン》と《糊の粒子》が 力の相互作用の媒体となり 《原始の粒子》から同じく分かれて出来た《レプトンクオーク》を 結びつけたりして それぞれ 素粒子の個として またそれらの結合物の全体として 運動すると考えられる。
中で 糊の粒子によって媒介されるクオーク間の相互作用は 《強い力》であって これが人間の社会的な力学の上では 《自己の同一性を保つところのたとえば〈わたしであること〉》だと捉えることが出来るのではないでしょうか。
次に――ということは こういった余論として話をつづけるのだと断わらなければならないかも知れませんが―― 《必ずしもそのような根源的なものを言うのでもなく かと言って おのれの幻想領域を形作る自己に固有の〈時間ないし運動〉〔へ〕の傾きというのでもない そしてまた 自己の社会的な影響力などということまでには至らない とにかくそこに己れがいるというほどの〈自己〉 とにかく〈自己〉というもの》の力が ウィークボソンの起こす《弱い相互作用》にあてはまると考える。
《根源的な〈自己〉》とは 《意識が欺かれることを経てなお持続する・もしくは 意識がみづからの意志とは直接かかわりなく眼前を流れる交換経済社会の総体〔としての意識〕に対して疎遠な関係ながら持続するとき そこにあると信じられるもの》である。というか――信じられるものと言うよりは―― やはり《わたし》自身であるだろう。
社会的な意味でのウィークボソンが 人と人との関係の接点(ないし その意味での接触の場)を起こすとするならば その接触の場において自己を保ち ある種の仕方で それら接触関係を自己が選択する力である。
選択した結果――言いかえると 自己の強い相互作用と 関係の出発点としての弱い力との 総合的な場で その関係の淘汰をおこなった結果―― いわば特定の一つひとつの関係を ある種の仕方で超現実的に特定の幻想を惹起させてのように かたちづくるものは 社会的な意味での《電磁的な力》である。――ここでは 接触関係の出発点が 《弱い相互作用》であり その出発点としての場の形成もこれが含み その場における特定の関係(それも場ではあろう)の形成・確立を 《電磁の相互作用》ということにしよう。
《これは――電磁的な力は―― みづからの時間ないし運動に方向および色彩を与えるべき 自己に固有の時間の傾きである。(傾向・性格)。これは 光が媒介するのである。このような〈自己〉の側面は いわゆる対(つい)なる幻想もしくは共同なる幻想と密接に関連すべき領域である。つまりこの〈個体の幻想〉は おそらくつねに〈対幻想〉とは順立する関係にあり 〈共同幻想〉とは一般に逆立し あるいは時に 順立を求める関係(革命・維新等)にあるだろう》。
つまり この電磁的な相互作用の場としての《共同幻想ないし共同観念》とは 交換経済社会のひとまとまりとしてのイエ すなわち国家〔なる観念現実〕であるだろう。社会もしくは社会形態(都市国家・地域国家などまでと限ってのように)は 場そのものとして 社会的な意味での重力場であることにも つながっているであろう。そして 国家形態そのものが 重力〔の場〕の歴史的な展開過程そのものと見るかどうかが 問題となるであろう。
つまり 対なる幻想すなわち 一組の男女の電磁場の形成(それは 過程的)すなわち家(家族) これは 重力(その場)や強い力および弱い力と 基本的につながったものであるだろう。
交換経済関係の発展としてのいわゆる資本主義社会は この国家なる電磁場の総体(国民経済 という共同観念)と相即的である。あるいは その資本主義的市民たる個体にかんしては 重力(その場)が――そして電磁場などもが―― 一義的に関係しあっているであろう。

今世紀のはじめに知られていた物理的な場といえば重力場と電磁場です。この他にも音波も 弾性体の中を伝わる波動も皆 場というものではありますが 非常に基本的な存在としてはやはりニュートン重力場と マクスウェルの電磁場であるといってよいでしょう。この中で重力場は アインシュタインによって時空の幾何学に関係があるということになったわけです。ニュートンの意味の重力場よりも さらに深く 自然なあり方そのものに根ざしているという認識に達したわけですね。これに対して電磁場の方はそれほど深い意味がないみたいです。つまり重力場によって決まる時空を枠として その中でおどる場にすぎません。
(藤井保憲:相対論の再発見―統一理論への道しるべ (ブルーバックス (B‐533))――統一理論への道しるべ―― 4章。1983)

もちろん しかるがゆえに 電磁場とこの重力場との関係が問題とされなくてはならないという認識の課題が持ち上がって来た(藤井保憲 前掲書・4章。鈴木真彦・釜江常好:素粒子の世界 (1981年) (岩波新書))7・8)。そしてこれが 社会力学の視点にとっても 国家の問題として――その電磁場と重力場との関係(関係の仕方)において―― 課題であると考えられる。もっとも この社会科学的な問題は 国家論として古くから課題として持たれてきたのであって いまでは 通俗的に言うならば 力の均衡(パワー・ポリティックス)の当否にかんする議論・つまりすすんで言いかえると このときの力は 一つの電磁場であるに過ぎず その元に ちがって重力場が存在するのではないかといった議論として すでにわれわれの有(もの)であるそれである。


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(つづく→2007-05-23 - caguirofie070523)