caguirofie

哲学いろいろ

#36

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十三章b ふたたび 国家の問題

まづ モノ(質料ないし物質)のエネルギー・力・運動と 人間の社会的な力・運動とは ちがうと思われる。前者の自然〔科学〕的な運動そのものが そのまま後者の自然史過程的な運動となるわけではない。もし仮りに 物体の運動と人間の運動とが 同じであったとしても 物体はこれを運動と認識しないばかりか 運動の主体であるとも自己認識しないのであるから 他の物体あるいは人間の 支配者であると考えるわけでもない。人間の運動・生活が すべて物体の自然運動から成っていると見る場合でも 人間はこれらを選択し加工したり排除したりする。言いかえると 物質の自己運動が そのものとして 人間の手に負えるものではないが この運動を人間は 人間的なものとして・社会的なものとして 方向づけないわけではない。
このような社会主体としての人間の 殊に《自己》の力として わたしは四つに分けて捉えたことがある。そして次の四つのうち 第一が重力 第二が電磁相互作用 第三が強い相互作用 第四が弱い相互作用に それぞれ対応しているかのようにいま考える。

  1. 《自己》の社会的な力( la puissance du moi )
  • 《自己》の超現実ないし 〔個体の〕幻想〔という意識〕( l'irréalité du moi
  • 根源的な《自己》( l'inépuisable moi )
  • とにかく《自己》というもの( le moi quoi que ce soit )

(《ポール・ヴァレリの方法への序説》〈時間的なるもの・γ〉
これらの人間の力 つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。第二の《〈自己〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。男と女のあいだに 電磁場(電気的・磁力的な作用の場)が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ 場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらに何か確かに作用が起こったとき それは 自分に都合のよい別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するかしたりする場合が 多いからである。
このとき 第四の《とにかく〈自己〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていた または 後でそのような結果としてある ものである。
これら二つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈自己〉というもの》をとおして 《自己の超現実》という場へ 接近する。《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》として 互いに接触し(つまり 事の始まりとしては 互いの紹介までである) 次に《電磁相互作用》によって 相互認識とかつきあいの場が なんらかの形で 成立する。
第三の《根源的な〈自己〉》というのは 自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると 相手を選ぼうとする―― いわば自己の凝縮というか自己の確認の作用である。これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり そのように独立主観であることによって その意味で 根源的なと名づける。
これら以上の三つが 大きくは同じ場で むしろ同じ力の三態としてはたらいているのである。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり 相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんなあり方として それを愛とよぶのにも 不都合はない。
最後に 第一の《〈自己〉の社会的な――もしくは公共的な――力》が 重力であり 表現として 万有引力である。主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく愛と呼ぶのに不都合はないであろう。男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務にかかわった力の問題にあたっている。婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として新たに確立したときの力の過程である。
婚姻ではなく一般的に人びとの連帯が成立するのは むしろ万有引力に比されるべき人間の意志によってであって 或るテーマ・或る問題の解決へ向けての運動であったり 時に これを階級的な連帯と 唯物史観がみるのは この力を基軸としているというわけだ。民族としてのまとまりは 微妙であるが それが国家としての統合であるとき それはまさに国家的な電磁場の〔幻想的な〕確立を 一つの経験現実としているであろう。しかし結婚は 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。接触弱い相互作用)・自己確認と相手の選択(強い相互作用)・そして意志(重力)にもとづく愛の関係(電磁相互作用)。そうして 公共的な職務にあたる(重力)。


言いかえると あの交換経済社会は 余剰を《自己の社会的な力》でありまたその源泉でもあると見た つまり 自己の社会的な力は余剰の所有にありと考えて出発した・そういう種類の重力の関係過程であると考えられなくはない。言いかえると そのような考え(意志)はあやまっているが あやまった意志たる重力が支配的となったのだと考えて考えられなくはない。いや われわれは誤ったものだと見るが それこそ 物質の自然運動に則った正統の歴史過程であると言わなければならないのかも知れない。前史・必然の王国が歴史である限りでは。
つまりこのときには 重力が 他の三つの相互作用の力に優るとも見なければならない。優るゆえに弱い 無視しうるほどに弱いのだと考えられる。万有引力はいわば空気のようであって 通常われわれの意識にのぼるのは 自己の同一性(相手の選択)・自己と他者との接触・およびその何らかの結びつきといった他の三つの相互作用である。
もっとも 逆に この重力が さらに別の顔を見せて現われると考えられなくはない。もともと 自給自足社会であったのだから そのときの重力(人間の意志)の顔かたちとはちがって 交換経済社会のそれを現わしたのであるから。ただしこれは 交換経済社会の初発のかたちとしては 同じ顔であって ただ自覚的になったという違いだと言ってもいい。この交換経済主体としての人間の重力の顔が現われ 自給自足主体にもそれは潜在的であったにすぎないのだから やがて 普遍的な社会の顔となった。しかも 重力の優位論にのっとって もしくは 重力一辺倒の自己の力学にのっとって むしろ仮象的な国家という電磁場を 一般的な重力場としたのが 国家の時代であるとすでに 結論づけられる。
愛のない婚姻が 無効であっても 経験的には推移していくように 重力場として無効な 国家という電磁場が――電磁相互作用という力がある限りで―― 経験現実であることは 不思議ではない。
つまり 歴史知性――人間の重力たる意志は 知恵と知識を持つ――が 無自覚的な自給自足生活から脱け出して 交換経済関係をとおしての自覚的な自給自足=他給他足の主体となって 社会を形成したとき この新しい生活原理(四つの力の統一的な)を 仮象的なイエとしてひとまとまりとなった交換経済社会へ さらに揚げて統一していったのが 国家という社会形態である。この中でも 四つの力は統合されうる つまり アマテラス国家族の重力たる意志のもとに あたかも一家族的な さまざまな電磁のと強いと弱いとの三つの相互作用を形成して生きていこう(共同自治しよう)と 唱えたのである。
言いかえるとつまり これに対しては はっきりと批判することが可能である。おそらく 三つの相互作用を媒介する光と 糊の粒子と ウィークボソンとを 国家が国家のために人為的に作り出したということだ。国家のための光とは 芸能(演劇・まつりごと)であり 糊の粒子とは官僚であり ウィークボソンとはその学者である。もちろん どこからが国家のためで どこまではそうではないとか 境界を引くことはできない。その基盤は あのはじめの歴史知性の生活原理・その流れを 引いている。要は この重力が 他の三つの相互作用とさらに統一されうるか否か されうるとすれば 重力がどのような新しい顔を現わして どのようにであるか この将来の運動過程にある。
これが 社会力学としての国家の問題である。もちろん 個々の人間を単純に量子と捉えるのではなく 個々の人間にこの社会力学の全体が 宿るというか 認識して見通されるというものである。
わたしたちは 気が早いから――気は短くはなく長いけれども 遅いのではなく早いものであるから―― この《自己》の四つの力の超統一理論として それは 愛であると言ってしまったのだ。もちろんこの愛は 狭義の科学的には 人間の経験的な愛であり 運動過程としてのそれである。第三の《根源的な自己》というときも この前提での《根源的な》であって これらの愛の力のさらに奥なる根源的なという意味ではない。
この乱暴な議論をもう少し――ていねいになるかどうか分からないが――追ってみよう。


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(つづく→2007-05-22 - caguirofie070522)