四つのちから
まづ モノ(質料)のエネルギー・力・運動と 人間の社会的な力・運動とは ちがうと思われる。前者の自然〔科学〕的な運動そのものが そのまま(あるいは勝手に)後者・人間社会における自然史過程的な運動となるわけではない。
もし仮りに 物体の運動と人間の運動とが 同じであったとしても 物体はこれを運動と認識しないばかりか 運動の主体であるとも自己認識しないのであるから 他の物体あるいは人間の 支配者であると考えるわけでもない。
人間の運動・生活が すべて物体の自然運動から成っていると見る場合でも 人間はこれらを選択し加工したり排除したりする。言いかえると 物質の自己運動が そのものとして 人間の手に負えるものだとは考えられないが この運動を人間は 人間的なものとして・社会的なものとして 方向づけないわけではない。
このような社会主体としての人間の 殊に《自己》の力を想定し さらに四つの力を仮想してみる。
1.重力 :《 〈自己〉 の社会的な力》( la puissance du moi )
2.電磁相互作用 :《 〈自己〉 の超現実》
ないし《〔個体の〕 幻想 〔という意識〕》( l'irréalité du moi )
3.強い相互作用 :《根源的な 〈自己〉 》( l'inépuisable moi )
4.弱い相互作用 :《とにかく 〈自己〉 というもの》( le moi quoi que ce soit )
これらの人間の力 つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。
いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。第二の《〈自己〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。男と女のあいだに 電磁場(電気的・磁力的な作用の場)が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。
幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ 場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらに何か確かに作用が起こったとき それは 自分に都合のよいように 別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するか そのような場合が 多いからである。
このとき これらは 特に意識しなくとも 第四の《とにかく〈自己〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていたものであろう。つまり 後でそのような結果として捉えられるものであろう。(何でもないことのほうが 印象や影響が強かったりする場合がある)。
これら二つないし三つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈自己〉というもの》をとおして 接触し 何らかのかたちで 《根源的な〈自己〉》を意識し始め それぞれが《自己の超現実》という場を夢見始めるに到る。
《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》において 互いに接触し 《強い相互作用》を働かせる。(ただしまだ 事の始まりとして 互いの紹介までである)。そして次に《電磁相互作用》がはたらいたなら 相互認識の場なり 付き合いの形なりが 成立する。
第三の《根源的な〈自己〉》というのは 自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると この場合 相手を選ぼうとする――力であり いわば自己の凝縮というような自己の確認の作用である。
これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり 単純に人それぞれにである限りにおいて 人は 独立主観である。この意味で 根源的なと名づける。
以上これらの三つが 大きくは同じ場で むしろ同じ力の三態としてはたらいているのである。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり 相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんな関係のあり方として それを愛(つまり 愛情と嫌悪)とよぶのにも 不都合はない。
最後に 第一の《〈自己〉の社会的な――もしくは公共的な――力》が 重力であり 表現として 万有引力(?)である。
主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく 愛(自治・自己経営)と呼ぶのに不都合はないであろう。
男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務(生活というほどの意)にかかわった力の問題にあたっている。婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として新たに確立したときの力の過程である。それは 重力の作用つまり自由意志によるかと思われる。
婚姻に限らず 一般的に人びとの連帯が成立するのは やはり 万有引力に比されるべき人間の意志によるのであって 或る主題の科学的知解や 或る問題の解決へ向けての運動として考えられる。
時に これを階級的な連帯と 唯物史観がみたのは この力を基軸とするというわけだ。民族としてのまとまりは 微妙であるが それが国家としての統合であるとき それはまさに国家的な電磁場の〔幻想的な〕確立を 一つの経験現実としているのであろう。
けれども 個人の二角関係のうちの 男女の対関係における結婚という結び付きは 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。接触(弱い相互作用)・自己確認と相手の選択(強い相互作用)・そして意志(重力)にもとづく愛の関係(電磁相互作用)。そうして 私的にして公共的な職務(生活)にあたる(重力)。・・・・・・