caguirofie

哲学いろいろ

この世は人間が認識するまでは存在しない

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9771227.html
No.9
回答者: lupan344
ホイーラーの遅延選択実験自体は、何も最近では無く、1990年代から、複数の大学で、実験自体は成功していますが、その解釈に、測定は関係していたとしても、「人間」が測定に関与しなければいけないと言う事は無いです。(単純に言えば、測定をカメラで行っても、実験は成功するでしょう)
ですから、この実験自体が、「人間に観測されるまでは、この世の現実は存在しない」事などを言っている実験では無いですよ。
なお、量子消去実験自体は、日経サイエンスなどで紹介されている方法で、誰でも実験できます。(偏光板を使った実験で、干渉縞を出したり、消したりする事は可能です)
偏光板は、2枚重ねの場合は、完全に遮光されたように見えますが、3枚目を45°の角度で重ねると、何故か遮光される度合いが減って、光が透過してしまいます。
この説明は難しいですが、簡単に考えると、偏光板は光の位相を回転させ、それが2枚重なると、結果的に位相の回転により、通過した光が干渉により打ち消されて遮光されたように見え、さらに45°の角度で3枚目を入れた場合は、位相の打ち消しが弱まる結果、光が透過してしまうと解釈する事が出来ます。
したがって、ホイーラーの遅延選択実験に関しても、それは光を粒子(光子)として考えるから、不思議に感じるだけで、最初から、光は波でしか無いと考えれば、何の不思議も無いと解釈する人もいます。(フィルムもしくは、光素子が、点として、光の軌跡を示したとしても、それが光子の存在そのものを表しているわけでは無い事に注意してください)
光量子を光子という古典的な粒子として捉えるか、それはあくまで物理的現象の解釈としての存在と考えるかは、哲学的には難しい問題でしょう。
電磁場と言う概念にしても、物理学的には、現象の観測として、間接的にその存在が暗示されているだけで、それ自体が観測できるわけではありません。
ただし、物理学者は、物理学的実在として、電磁場の存在を疑う事は無いでしょう。(解釈としての存在であっても、それを物理学的実在として考えた方が有用だからです)
ニュートン古典力学において、重力を直接作用力で無く、遠隔力として、その間の作用媒質は存在しないと考えました。当時は、デカルトライプニッツなどの提唱する力学的作用には、直接作用が必要との考えが主流でした。
そこで、後世でエーテルと呼ばれる事になる、物理的観測はされないが、力学作用を行う、空間を満たす存在が仮定されていたわけです。
ニュートンは、それを否定して、遠隔力による力学を作り上げました。(クーロンなども同様の考えです)
しかし、光の干渉などにより、光が波の性質を持つことから、再び、真空を満たす媒質として、エーテルの存在が仮定されました。
地球の運動と無関係に存在するエーテル自体は、マイケルソン・モーレーの実験により否定されましたが、電磁気学では、電磁場と言う、電磁波の周囲に存在する物理学的実在の場が、エーテルの変わりに想定されました。(電磁場は、電磁作用を媒体する仮想的な場です)
アインシュタインは、エーテルの存在の必要性は、特殊相対性理論で不要としましたが、それに代わるものとしての、場の理論を必要としました。(一般相対性理論では、重力場が必要になります)
これらは、遠隔力と直接作用力の論争なわけですが、重要なのは、解釈によらず、現象の方程式は、成り立つと言う事です。
ホイーラーの遅延選択実験は、現象として、最後の観測によって、光の量子状態が収束している事は示していますが、それがいつ確定したかは、明示していません。
この実験が意味するのは、光が波と光子の状態の重ね合わせ状態にあり、観測により、量子状態が収束する事だけです。
事実は、最後の観測(最後の選択介入と呼ぶべきかもしれません)により、状態が収束していると言う事だけです。
それは、観測により量子状態が収束すると言えても、観測無くして、物理的実在全てが存在しないと言う事ではありません。
物理学者であれば、素粒子レベルの量子状態が、観測(選択介入もしくは、物理的干渉)によらなければ、収束しないのに、何故、物質が安定しているのかが不思議だと思うでしょう。
ミクロのレベルでの不確定性と、マクロレベルでの安定性をつなぐのは何かを考える方が重要だと思います。
宗教であれば、それは神の御業と言うでしょうし、プラトニズムでしたら、それが真理だと考えるかもしれません。
西洋科学を元とした、近代科学は、プラトニズムの影響を受けていますから、その根底には、何らかの真理を探究する考えがあります。
そういう意味では、直接観測出来ない物理的概念に関しては、ある意味形而上学的なアプローチと言えなくも無いわけです。
ただし、自然学が扱うのは、当然ながら、形而下だけのはずです。
現象の解釈を拡大してしまうと、科学が扱っている形而下と同様に形而上の概念を説明してしまう事になります。
あくまで、「解釈」と考えないと、間違って捉えられる可能性はあるでしょう。