caguirofie

哲学いろいろ

#11

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

価格の決定への一つの見方a

東京 午後二時半。《ロシア・タイム》がスタートする。在日外銀のチーフディーラーT氏は大手町のオフィスでテレックスのキーをたたき ソ連の注文を取り次ぐことの多いパリ国立銀行シンガポール支店を呼び出す。モスクワは午前九時半 クレムリンが動き出す時間だ。同視点のドルの売値は一ドル=二五一円。東京市場に比べて五〇銭近いドル安。《いつもの熊の手口だ》と舌打ちする。ソ連が仕手筋として外為市場に登場したのは昨年(1984年)春から。欧米市場より取引量が少なく 相場を操作しやすいアジア市場で活発に動き回る。
大量にドルを売り 相場が軟化したところでドルを買い戻す。一度に五千万ドル近くも売り出すのでT氏も対抗上ドルの売値を下げざるを得ない。厄介な新参入者である。
日本経済新聞1985年4月2日 連載記事《ザ・マーケット――変わるマネー地図――》・1)

連載の第二回では 《目覚めた獅子・中国》と題して 同じように国際金融界で 中国銀行が利ザヤを稼ぐところを紹介している(4月3日付)。そしてさらに 《〈かつてマーケットはそれぞれが独立王国だった〉。外国為替 債券 短期金利 株式 金 石油――それぞれが独立して動き 国境も厳然としていたが 今や一つの情報をもとに相互に作用しあい 地球全体が一つの市場と化し 資金のうねりを生む》という《地球市場時代(連載第一回)》が姿を現しつつあるのだそうだ。
もう少し引用しておくと

国際資本の地殻変動が始まった。世界各地に新しい市場が誕生し 既存の市場とからみあいながら 全体として膨大なカネとヒトと情報を吸収し 新しい経済秩序を生みだしている。時間を超え 国境を超えて巨大化する市場が支配するのは価格だけではない。企業の行動様式 国の経済政策を動かし やがて世界の経済地図をも変える。
(同上)

という見方である。
ここから考えられることは 一つに 資金(貨幣)の面では明らかに もっぱらの利潤(利子。さらには 異なる市場間の金利差)を追い求めるというもっぱらのアマテラス要因が――つまり そうすることが 客観合理的であるということが―― 見出されることである。世界市場においては 社会主義国でも 例外ではなくなりつつあるかも知れないということ。もう一つに 価格は モノの値段といった価値指標を基軸として拡がって 経済活動の全般・生活の全領域の問題に――それとしての大きな指標に――なっていく可能性が出てきた。
《メジャー(国際石油資本)から原油の価格決定権を奪ったOPEC(石油輸出国機構)が生産調整に四苦八苦しているうちにニューヨークの金融先物業者の手に原油価格の決定権が移ってしまった》と先の新聞記事は 報じている。これは もっぱらのアマテラス要因の動きをとおしてだが その前に OPECが 自分たちの生活スサノヲ要因を主張したのと同じように やがて 世界全体的なこのインタスサノヲ要因の復権が 広く価格を決定していくという方向を 指し示さないわけでもないだろう。このような広義の価格――したがって 価値充足の動態――は 単なるモノの値段というものではなくなるかも知れないということができる。
最後の一つに やはりこの第二の点も 当面 もっぱらのアマテラス要因によって推進される経験世界の必然有力の動きによるところが 大きいと思われること これらである。
これに対して簡単に言って 必ずしもわれわれは 必然有力の動き・そしてそれに対する最も客観合理的な対策だと考えられている考え方・行き方を なにか道徳=規範的に阻止しようとするのではなく それはそれで まずみとめ さらにこれを引き受け それと同時に この必然有力の世界を・そして客観合理性というアマテラス要因を 各自の主観判断において 開いていくということ。アマテラス要因を内に含んだインタスサノヲ主観関係の過程を この二角協働の関係過程じたいを おのおの自己のものにしていくということ。これが われわれの言うインタスサノヲ価格の実際ということであった。
ここでは さらに《考え》として 考え進めることとして 前節につづいて 価格の決定をどう見ていくのかを議論したい。


この節では特に 主観判断の無力の有効といった基本的な一面に わざと片寄った議論をすることになると思われる。話としては そうなると 何か未来の先取りのように――または夢物語のように――聞こえるかの思うが その心は 現在の 客体情況の必然有力とそれに対する客観認識さらにそれにもとづく対策 といったもう一方の主観判断の側面と じつは この現在時の過程で 同時に進行しているはずだというところにある。
主観判断の二面構造は 《はじめ総体》の主観関係に先行されているか その総体過程として 実際に同時一体の一面構造であるかだと考えられるというにすぎない。経済学の交通整理の出発点は ここにあると思われる。
二角協働関係の主体たる人間は 価値充足過程じたいの所有者であって その労働力の所有者でもあるが この労働力所有者の所有者は いない。労働力の主体に 価格は ありえない。人間の中から 能力としての労働力をあたかも取り出して 価格をつけて交換しあうということは ありえない。
労働力の提供すなわち労働行為に 契約をとおして 価格があったとしたなら それは 二角協働関係の社会的な一つの仕組みとしてであって これは 仕組みの構造関係を離れた一面的な 価値の提供と対価との合致が その人の価値充足過程の指標になっているとすると この仕組みには やはり二重の側面があることになる。
《はじめ》の二角協働関係の総体たる社会から そのような指標としての労働の対価を得るという一面と じっさいに具体的に雇用契約にもとづいて 同じくそれを得るという一面とである。そうとしか考えられない。もしこうでなければ 客観認識にもとづく雇用契約が実現されているのなら 労働の・そして生活全般の価値充足は すでに理想的な状態にあり わざわざほとんど経済学することもないであろう。契約も 労働行為もそしてその主体の思想も みな自由なのであるから。
これは 建て前にしかすぎないというなら まずこの建て前の一面的であることを 見なければならない。つまり 本音がどうこう言うのではなく 経済学としては この建て前が あたかも二面的に拡がって 《はじめ》という総体過程を持つと言っていなければならない。つまりこの《はじめ》も 建て前であり あくまで経験行為を 問題としている。
労働行為にかんして その価値の指標として 価格(賃金)を用いるばあい・この価格を用いて交通整理をするばあい 一方に 言ってみれば《はじめ》の社会全体およびそこにおける人間のあり方として あたかも雇用契約を(つまり 存在の関係・生活の共同性を)むすんでいてそのときの価格(報酬)ということが 抽象的な考え方として あって 他方で 具体的に一定の会社と雇用契約をむすんで取得する対価とがある。なぜなら 二角協働関係は 自生的でかつ自覚的な(ふつうの)社会関係であり――《はじめ》にそうであり―― と同時に 一定の会社を形成して二角協働関係の組織的な結合でもある。しかし 後者の会社は 《はじめ》の社会に 従属している。
会社も建て前であれば このことも建て前である。《はじめ》は 小前提で だから便宜的な仮設であったとしても 経験世界なのだという限りで そうであり また 一定の企業組織が この《はじめ=社会総体》に 従属するというのは 市場の全体の歴史過程に(または 中央計画経済の一国家社会に) それが所属するというにほかならないから。
労働力に 価格は ありえない。もしくは 人格の一側面としてのそういう価格のあり方が ある。しかるゆえに 労働に対する価格も あってなきが如くである。まず この点が 《はじめ》の想定から 帰結される。それが 非現実的だと言うのは 現実的に有効だが ただ無力にされているだけだということの 文学的な言いかえにすぎない。それは 建て前を離れることである。文学は 離れてもよいわけである。
すなわち 一定の会社からの報酬が 労働の価格となっていて 一般に・いわゆる客観的に 価値充足過程の交通整理を これによって おこなうことは 一面的であって――それが 圧倒的に全面だと見えるほど有力であっても そうであって―― もう一つの《はじめ》の基本的な側面は 労働力の所有者=価値充足過程の所有者が 主観的に 報酬の使用をとおして 自己が自己を 交通整理することである。後者の基本面が 一日のうち三分の二であるとか あるいは実質的に言って微々たる割合でしかないとか だからあるいは もはや全く無力であるとか 客体事実として・また文学的に 言ってみても 人間の現実は 前者と合わせたあくまで同時一体の 二面的に見える構造過程でしかない。
そして 《はじめ》が主観相互の協働関係でしかないのであれば これら両面のけじめだとか使い分けだとかといったことに 問題は ない。両面的な事態を 主観がみとめ(アマテラス要因=学問知識) 引き受けること(スサノヲ要因) これが 基本的な出発点である。出発点に立つなら 出発点じたいが 動態過程である。学問も この出発じたいを――経験行為として――問題にしなければ 価格の決定を うんぬんすることは できない。
じっさい 主観関係の《はじめ》は 一主観の一定の会社への従属という必然的に有力な一面を つねに 超えている。ひらかれている。これが 経験的でないと言おうとするのは 人間にとって まったくの苦痛をともなう思考である。すなわち 労働が価格をつけられて交換の対象となるといった会社への従属の一面は それが 世の中の必然的な市場過程の有力のもとに ほとんど全面的となって 生活のすべてだと――文学的にでも―― まずみとめるということは そのことじたい 会社への従属を 主観が 有効に 超えていると見ることにひとしい。それ以外の見方は 経験世界では 考えられない。
したがって 《はじめ》が なにか原子とか分子とかの自然運動の過程であるといった・ただ客体的で またそれの認識としての《客観関係》ではないとするなら 主観的な 自己の交通整理が(つまり 経済学行為が) 会社に従属することによって得る報酬にもとづく交通整理を 主導するはずである。さもなければ それは 人間の放棄である。そして 人間を放棄しない普通のばあいに 《はじめ》の動態において 過程的に 不足が生じていることは 恥じることはないし またそれを誇る必要もない。
あってなきが如くである労働の価格は――というふうに いま 価格の決定の一分野を考えているのだが―― たしかに モノ(生産物)の価格に 対応している。労働の価格もモノの価格も そのように――だから そのように―― 二面的な構造としての・社会と会社との間で 一定の便宜的な仕組みにおいて 成り立っている。春闘といた労働価格の決定交渉に際して 特に交通機関の労働者が ストライキに訴えるとき これに対して 一般の人びとが 社会主観的に反対の声をあげるとすれば それは とうぜん 会社側に対しても 同じく社会的な主観関係を その第三者の人びとが 訴えていることにほかならない。とうぜん 《はじめ総体》じたいの だから生活する人びと一人ひとりの 経済学的な交通整理の問題である。主観の 良心・信教・思想そして表現の自由が確立されているならば こにまの建て前も まったく経験現実である。この経済学のはじめにおいて 労働の価格は あってなきがものである。
ここでは わざと このような抽象的な一面の議論に 片寄りたいと思う。ただし はじめが経験現実であるならば これは 主観の買いかぶりではない。まず 主観が こうして開かれるべきだと えらそうに 言うのである。
(つづく→2006-12-07 - caguirofie061207)