caguirofie

哲学いろいろ

イスカリオテのユダ小考(つづき・その3)

2006-12-05 - caguirofie061205よりのつづきです。

ユダの心の物語

《一同が席に着いて食事をしているとき》 イエスは――名指しであるか否かを問わず――はっきりと裏切り者が誰であるかを明らかにして言ったのである。マルコという記者によると

エスは言った。

はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。

弟子たちは心を痛めて、《まさかわたしのことでは》と代わる代わる言い始めた。イエスは言った。

十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。

マルコの福音書 (新聖書講解シリーズ (2)) 14:18−20)

その前に すでに 祭祀長たちに引き渡しの対価を交渉していたという記事もあったわけだが この晩餐の席で きわめて明確に ことは発覚した。言いかえると もともと イエスとの間に 了解があってのことだとしても 明らかにユダその人が 裏切り行為をしようとしていると語られたのである。
このときのユダの心境を推し測ってみよう。どうであろうか。
たとえば 了解が前もってあったのなら むしろイエスに裏切られたと感じただろうか。あるいは このようにほかの弟子たちの前で そのことが明らかにされることを すでに イエスから知らされていたのだろうか。すべては 予定の行動だったとこそ見るべきだろうか。
いったい それでは ユダは 何をおそわり 何を考え 何をしようとしていたと言うべきなのか。

むしろ ユダ派の人びとの思想が問題

おそらく ユダ本人については 本人でなければ 何もわからないであろう。あるいは 本人でも わからないかも知れない。あるいは むしろ わかるべき何かがあるという考えが 妥当ではないかも知れない。
かれは ただ 裏切りたかった あるいは 対価の貨幣が欲しかった あるいは イエスが憎かった あるいは 何かとんでもないことがしたかっただけ 云々等々・・・。つまり これらは わかっても どうということのない理由である。その限りでは ユダ本人については あまり 問題はないのかも知れない。利用・善用されたというのみであるのかも知れない。 

  • ひとつ もっともらしいユダ論を紹介しておこう。それは かれが イエスを 祖国イスラエルの解放のための政治的指導者だと仰ぎ かついでいたのだという解釈に立つ。ローマ帝国の支配からの自由と独立を勝ち取るのに 絶好の人物であり 大衆に絶大な人気のある指導者だと踏んでいたところ 一向にその動きへの気配がない ないばかりか やがて《この世から去っていく》とまで言い出した これは やばいと思ったというものである。
  • この説に立つと ユダは イエスをほんとうには理解していなかったということになる。のちに聖書が伝えることになるその内容などについて 何も知らなかったということになる。政治的な解放を目指していたとは 書いてないから。だから ここでは むしろユダ派の人びとが この見解を採らないであろう。
  • ちなみに われわれは 政治権力を回避せよということではないと但し書きをしておくことができる。

仮りに もしユダが ユダによる福音書のかれではなく ただの反逆者だとしたばあい どういうことが さらに言えるか。もう 何も言うべきことはないか。
おそらく わたしの感覚では 一同の会した食事の席上 あのように明確に《おまえは裏切り者だ》と指摘されたのなら わたしなら 怯えあがってしまうと思われる。ばれていたのか!と。そして こころが錆びついてしまう。わびしくなって わびるであろう。
ところが ユダは それでも 前々からの計画を実行したのである。
それは たとえばマルコが記すように

エスは弟子たちに言った。

あなたがたは皆わたしにつまづく。

わたし(=父なる神)は羊飼い(=キリスト・イエス)を打つ。すると、羊は散ってしまう。
旧約聖書・ゼカリヤ書13:7 ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書 (ティンデル聖書注解)

と書いてあるからだ。

マルコの福音書 (新聖書講解シリーズ (2)) 14:27)

というように 《聖書に書いてあるとおりに去って行く》というそのはかりごとに従って 用いられたということなのであろうが そのように神学に逃れない場合には どう考えればよいか。
なぜなら イエスを裏切ったのは――ここで あらためて言うのも 遅いかも知れないが―― ユダだけではなく ペテロを初めとする弟子たち 一人残らず一同の者みんなだったのだから。ちなみに 次のごとくである。
《羊飼い(=キリスト・イエス)が打たれると 弟子たちである羊は散ってしまう》というイエスのことばを受けて 有名な箇所が始まる。

するとペテロが、《たとえ、みんながつまづいても、わたしはつまづきません》と言った。
エスは言った。

はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。

ペテロは力を込めて言い張った。《たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。》皆の者も同じように言った。
マルコの福音書 (新聖書講解シリーズ (2)) 14:29−31)

ペテロたちの心と信念とは うそではなく ほんとうであったのであろうが いかんせん その力は及ばなかった。果たして 散り散りになってしまった。
つまり だれもが イエスを裏切っている。
ユダは 裏切り行為を敢然として遂行した。そのこころは?
ここから ユダの福音書をしたためる人びとの見解が 始まると思われる。

ユダは裏切ったのかという問い返しから

いや 断じて ユダは ほかのペテロらのような腰抜けの弟子ではなく 信念の人でもあり それどころか イエスによって ただ一人 その真意を理解する者として遇されていたという方向が現われたものと推し測ることができる。この推測は 不自然でも 無理やりのものでもないであろう。
(つづく→2006-12-07 - caguirofie061207)