caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

価格の決定への一つの見方b

人は 労働の売り買いをしているわけでなく ましてや 労働力を自己を 売り渡したわけではない。そういう一面を 文学的に強調して 表現することはできるとしても。
経済学は たしかに文学を一つの基軸とするとはいえ 同じ行き方ではないし 同じ行き方においてのみ科学的に深く分析・解剖してみせればよいのでもない。《はじめ》では その基本的な側面では 人間の存在としての労働力ないしその労働行為を 社会的な協働の場へ 投入したというにすぎない。だれもがわかっていることなのであるが はっきりとさせて この出発点に立たなければいけない。価格の決定は それからである。もちろん 同時進行である。
言いかえると 客観関係の――という名の客体情況つまり 《いま どうして くれるのだ?》といった――必然の力は それへの服従を余儀なくしているばあいは つまり 会社の命令に従わなければならない場合は 主観は ただ ゆづるだけである。また できないものは できないと 表明するだけである。このような場合 無力であり有効である。そうでない場合は 有力であっても ことごとく 無効である。無効と有効とは 決して混同しない。ただ 有効のうちにあるところの無力と そして有力とが 互いに混合する。つまり ゆづって命令に従うばあいである。すなわち 労働行為は 価値充足過程の一環でしかない。一環としては これを離れていない。これの交通整理は おのおの主観がおこなうものである。客観関係の天動説は 《はじめ》において ありえない。
ここで ただし 貨幣的な価格が 指標として用いられている。これにもとづいて 労働を売った買ったという。買ったというなら それは 二角協働関係が買ったのであって しかも そのかれらは 売り買いしているのではない。――われわれは 無力の有効を論じていかなければならない。――主観的な交通整理の社会的なその交通の整理のために 価格・貨幣を用いあっているにすぎない。そんな指標など要らないではないかというのが いまの議論の焦点である。
まず 労働力は 価格の決定に 無縁である。労働力の投入つまり労働量が 価格を構成することはあっても 労働力じたいは 価格になるべき対象ではない。次に 価値の創造を 価格という指標を用いて 交通整理するときにのみ 労働が その価格(価格的な価値)を創造したと見なされる。この労働に 或る種の仕方で客観的に 貨幣的な評価額が 与えられる。これがなくても 人は 自己を交通整理するわけだが 《はじめ》にかんする一つの(一時代的な)仕組みとして その労働価格関係のなかで おのおの価値充足をおこなうことになっている。このもとでは 労働が 費用つまり生産物の価格の構成要素としても 計算される。――これが すべてである。


第二に 土地・資源は 価値充足主体にとっての自然的な場であり 価値充足過程の手段である。二角協働関係の場の自然的な領域であって 関係二角の所有するものであるから 価格の構成要因とはなりえない。土地・資源を 部分的に 切り売りしたりして 費用として価格の構成要素とさせる必要はない。土地・資源にかんして 一定部分としての場所のちがい・モノの違いとして 差異また不足が生じているであろうが その意味でインタスサノヲ価格の構成要素であるだろうが 生産物価格の決定に これらは 客体としても あづからないというのが ただしい。
価格指標に加えられて たしかに差異・不足を示しうるが だからこの指標で人びとは自己の交通整理をおこなっていけるが 地代・原材料費といった価格要素の指標によらなくとも 自己の交通整理をおこなえるなら 価格に入れなくともよい。これら自然資源そのものではなく これらに対する労働行為の質と量とにかんして 価値の便宜的な指標として わづかに 価格が生じてくるのである。労働量としての価格指標すら 要らないかも知れない。労働行為は 誰がおこなっても どんな種類のものでも みな貴いのであるから その質と量との差異は 相対的なものである。
また 不足が生じているところの一定の二角協働関係の場への 自然資源や生産物の配分は 特別に価格指標を用いなくてもできる。あってもよいが なくてもよい。言ってみれば或る種の仕方で交通事故がなくなると言おうとするのではなく 相互対立的な主観関係を 交通整理していくのに 価格指標は あってもよいし なくてもできる。
これは 逆に 交通事故を起こさずに 価値充足の過程をいとなんでいくために いま 価格指標が〔発明されて〕用いられているということでもある。ただし むしろこの考え方のほうが 《交通事故のぼくめつ》といった一面的な建て前 つまりそれのさらに規範化を 持っていることになる。価格指標は 信号であるだけではなく むしろ不自由な――主観の無力にされっぱなしの――管理社会・監視体制を象徴するものとなっているのである。
よって 第一点で 労働の価格が あってなきが如きものであったのと同じように 自然資源そのものの価格も 交通整理の指標から しりぞく。しりぞくときには まず それらの採取・加工といった労働行為量のみが 価格を構成するようになり そしてこの労働の価格じたいも あってなきが如くのものに なっていく。これは 政策的な手続きの段階を言うのではなく 《はじめ》の基本的な一面のものがたりとしてである。はなしとして こう考えられる。


第三に 人間が二角協働関係として 土地のうえで 資源をもって 労働をいとなむとき 全体としての価値充足過程つまり《はじめ》の 交通整理は 一つに 価格をつうじて おこなわれている。この価格の決定について 議論しているのであるが 第三に 生産の手段といわれるものの 価格決定との関係を見てみよう。
もちろん 現在 生産手段(機械装置など)に 価格は つけられている。そして 結論は これも同じように 要らないとしてもよいということである。
生産手段の価格のばあいは それが第一に述べた労働の質と量とにかんして生じているものであるとすれば その点では特に それはそれでよいわけである。そして さらに 《はじめ》の動態として考えるに この生産手段は 生産され購入したあとは すでに使用に供された時点で もはやふたたびは 新しい次の段階の価格を構成させる必要はないと見るべきではないだろう。そして そのうえでは 購入(交換)のときにも 価格指標をもはや引きずっていないというふうに。
減価償却費として つまり その生産手段の使用に耐えうる期間を見計らって 生産手段の購入価格は その期間内に 一部分づつ費用として 割り当てられること そのように価格を構成すること これは 質と量としての労働のすでに成果であるものが 第二次的に発進(計算)されるのであるから 価値の指標として あってもよいし なくてもよい。あっても その既に過去となったデータは つねに将来へ向けて 社会全体における協働二角単位の合理的な配分をみちびくためのものであるから このデータは いま現在の協働過程の言ってみれば生産性の(価値充足の有効性の)基準に 吸収される。そのデータは 必ずしも 合理的な資源使用の配分にもかかわっておらず その配分にかかわるのは すでに つねにいま現在の労働行為のあり方だけである。わづかに 生産手段につけられた価格指標が 資源配分の合理性にかかわるのは いわば反面教師としてのみである。過去の労働行為のあり方が 配分の点で合理的でなかったという反省をもつことによってのみなのである。
反省を規範とするわけにはいかない。指標として あってもよいが なくてもよい。また 規範とはしないその反省があるというなら それは 客体的な価格指標を見ることによってであるが 主観判断・二角協働の主観関係の相互に内的な判断(つまり交通整理)がおこなうものである。ところが わたしがここで極論のものがたりとして言うのは 主観おのおの 反省はするが 過去の事実のそれによって 自己をせめないということである。《経験世界のはじめ》に立つならば この《はじめ》が動いているのであって 過去のすでに定まった経験事実を 規範的な価格指標とは見ないし しないということだ。指標を規範とするなら 規範(道徳)とするとき自己は交通整理を過程させないから 人は ガミガミ言うのである。これは 価格を形成しないし したがって構成しない。
すでに購入して使用されている生産手段は その既存の価格が あらためて費用として割り振られ 次の新しい生産物の価格を構成するとは 見ないことも 成り立ちうる。さらにさかのぼって 交換(販売)のときにも 生産手段は価格を持たなくともよい。
これを言いかえると すでに生産され・かつ購入・使用されるモノ・コトは すべて もはや その次の段階の価格を 形成しないと見る。わづかに あたらしく投入される労働のみが つねにその現在の過程のみが 価格を 形成するという考え方である。しかし このばあいの価格は もはや協働関係の動態たる価値行為そのものであるだろう。それに 何らかの客観認識による指標は あってもよいし なくともよい。あったほうが 自己が交通整理しやすいというばあいは そういった指標が さらに考え出されていくであろう。
しかし わたしは 客観指標が 主観を犯すことをおそれる。《わたし》ということばが わたしを転変させることを おそれる。価格指標が人格を そして《人格》ということばの指標が わたしを もっぱらのアマテラス化させることを おそれる。こう言った上で 必然世界の有力であるすべての指標は なかんづく価格は それを捉える主観(主観関係)の内に 開かれ もはやどうでもよいもの・自由な相対的なものとなっている。
したがって このつてで行けば これら三点――つまり 労働・自然資源そして生産手段――の全体として いまおこなわれている二角協働関係が そのまま 価値充足の過程であり そこに 価格が 労働量としてのみ 便宜的に(分業関係から)形成されるという考え方である。いま現在の労働量のみが価格を形成するというのは 価値行為(生活)そのものとなっている。価格の決定が このようになされるという《はじめ動態》の内容である。そして 《価格が価値だ》という――表現じょうの――ことがらは いま現在の経験過程でもあった。
つまり わざわざ価格指標を なくせと言って それを言うために この議論をしたのではない。いまおこなわれている同じ経験過程が そのままで 開かれていくということ(――こう言うと きわめて保守的だと見られることを 覚悟のうえで――) そして その同じ社会過程が そのままで ただ 価格(貨幣)の創造ではなく もちろん価値の創造となっているというおとぎ話である。ただし このおとぎ話は 経験的な 価格の決定を問題として 語ったのである。
二角関係協働の場じたいが 経済学行為の場となる。また行為過程じたいでもある。この主観充足の 経済学的な目安として 価値秤量または価格指標の使用が いま行なわれているし おこなわれてよいと考えられる。このばあい 価格は――モノにつけられた価格指標は―― むしろ主観関係において精神(つまり主観)の捉えている価格である。今もすでにそうであるように そしてさらにその姿を現わしていってのように 精神が経験行為を交通整理するときの一つの指標であり信号である。議論は それで おわりだ。これで 議論は 終わりだ。
(補遺につづく→2006-12-08 - caguirofie061208)