caguirofie

哲学いろいろ

イスカリオテのユダ小考(つづき・その4)

2006-12-06 - caguirofie061206よりのつづきです。

ユダは裏切ったのかという問い返しから

いや 断じて ユダは ほかのペテロらのような腰抜けの弟子ではなく 信念の人でもあり それどころか イエスによって ただ一人 その真意を理解する者として遇されていたという方向が現われたものと推し測ることができる。この推測は 不自然でも 無理やりのものでもないであろう。

intermezzo

ここまで来て まだ前提事項に言い残しがあった。
というと 本論に値打ちをもたすために引き伸ばしているようだが 逆に ここは もったいぶってみよう。というのは これら前提事項をしっかりおさえておくなら もう本論は あまり必要ないほどであるかも知れない。じっさい 今の段階では 本論の成案があるわけでさえないので そう告白しておいて さらに 幕間のお話をさせていただく。


二つのことがらが 気にかかっている。そのことに 気づいた。
一つは イエスが 人間イエスとしては あたかも裏切りという悪の行為に対して 徹底的に憎み――なぜなら その相手ユダに対しては 《生まれなかったほうが その者のためによかった》(マタイ26:24)とさえ言っているからだが――

  • ちなみに ついでながら やはり人間イエスとしては この裏切り行為の末に受難を受けたときには 《わが神 わが神 なにゆえ わたしを捨てたか》と泣いて語った。このことばは やがて 父なる神にすべてを委ねますということばに落ち着くのではあるが 人間イエスとしては 怒ったり泣いたり 嘆いたり絶望したりしている。

しかも キリストとしては そのユダの裏切り行為をも 利用しようとした・善用する結果となるということを述べたが この後者の 悪の善用という点について 但し書きが必要であると気づいた。悪の善用は ひとりユダだけに限らず けっきょく 大きくはすべての人びとの悪の側面をも善用しているということ これを付け加えておかなければならない。
具体的には 昔からのユダヤ教に就く人びと つまり祭司長をはじめとする聖職者たち あるいは 一般の民衆 これらの人びとをも 用いた。
たとえば 引き渡されたあと ローマ総督からの尋問では けっきょく 罪は見出されなかった。だから 総督ピラトは ユダヤ民衆に対して かれは無罪だ 過ぎ越しの祭のための囚人釈放の慣習があるから 放免するということを提案してやった。それに対しては 聖職者たちの説得もあって 民衆は イエスの放免を受け容れなかった。そのように ユダだけではなく 多くの人びとの悪が 《羊飼いを打つ》という去り方の実現のために 用いられたのである。


ちなみに これら民衆も イエスをねたみ 死に追いやったが 意外と いさぎよい。

〔総督〕ピラトは 《いったいどんな悪事を〔このイエスは〕はたらいたというのか》と聞いたが 群集はますます激しく《十字架につけるんだ》と叫び続けた。ピラトは それ以上言ってもむだなばかりか かえって騒動が起こりそうなのを見て・・・言った。

この人の血を流すことについて わたしには責任がない。お前たちの問題だ。

民はこぞって答えた。

その血の責任は われわれと子孫にある。

マタイによる福音書 (EKK新約聖書註解)27:23−25)


悪が善用されなかったなら――社会一般的に 悪が善用されなかったなら―― イエスがキリストであることは 人びとに伝わらなかった。そもそも イエスは 自首したわけではない。そもそも 自分は罪を犯したと認めたものではなかった。それが はりつけの刑に遭うというのだから 受難であり イエスは泣いたのであり キリストはこれを 逆に すすんで ユダや祭司長たちを用いて 取り計らったのである。(これは 二重人格とは言わない。キリストは 人格ではない。あるいは キリストなる神格が 小部分でも 人間に備えられているとするなら キリスト・イエスなる神格=人格のもとに すべてが統括されているということになる。)


もう一つ 言い残していたこと。
フランス語に  《 コアンスモン coincement 》という言葉がある。ボクシングで コーナー( coin )に追いやり押し込める視像で 理解していたのだが その点は それでいいのか はっきりしない。《身動きできないように 押し込める;弁解の余地のなくなるほど 問い詰める》ことだと思われる。
(つづく→2006-12-08 - caguirofie061208)