caguirofie

哲学いろいろ

#10

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《インタスサノヲ価格》の実際c

このプレ・スサノヲ的な判断形式は 或る種の〔精神または悪しき精神の〕インパクトを受けると 《もっぱらのアマテラス要因》として 作用する。価値創造の過程=主観内容の充足過程を 主観とは 切り離してしまっているからであり さらにその上で 事が起きるからである。このとき 単独分立するアマテラス価格が 決定される。
要するに 価格を――つまり人格の経済的な交通の側面を―― 主観がではあるが その主観は ただ《もっぱらのアマテラス判断形式》で 意思決定する。これは 《発展》を求めたものであるにもかかわらず 基体スサノヲ価値の発展であるかどうかを内に省みることなく まず 単独分立する利潤を追い求めるという判断形式である。つまり そのあとに 主観内容の充足が実現されると 今度は 内省しているのでもある。単独分立する利潤の増殖が 人間的な発展だと考えられていく。
このような初歩的な議論を もう少し追っていくと そこでは 価値創造を目的とする・つまり人間が価値充足をおこなう ではなく 価値創造という概念(頭の中の考え)が 人間する。これが もっぱらのアマテラス要因であり そのすがたは 物象化とよばれている。図式的にみると 《プレ・スサノヲ要因》は 自己疎外の素であり 《もっぱらのアマテラス要因》は 自己疎外の転化としての自己物象化の素であるということにもなるが この議論では いづれも 主観の判断形式としての事が起こると〔前提的に〕考えている。
主観がともかう有効であるならば そこで実現されていくアマテラス価格には(要するに市場化価格には) 基体スサノヲ価値にもとづく部分もあれば それとは切り離した部分もあると考えられる。頭の中では――だから しばしば 悪しき精神=天使に擬装した精神において―― このアマテラス価格は 《はじめに》 基体スサノヲ価値と 分離している。また分離しているべきだと(それが 客観的な合理性・合理的な客観判断だと) かんがえられている。
天使に擬装した精神というのは(そのような主観の判断形式というのは) プレ・スサノヲ要因としての精神が 自分の使用すべき価値を 他から与えられると考えているのに大して ちょうど反対に 自分の頭の中は すべて 客観的な合理性に満たされているから そういう天使であるならば すべての価値を 自分がつくりだすと考えるのである。
ここまでは 定義の問題である。もしくは 現状追認までである。
モノ・コトは 肉体の欲求であるか それとも これに多かれ少なかれ かかわっている。精神の欲求は これを交通整理するところにある。ところが だから モノ・コトは 身体としてのスサノヲ基体に その意味でつながっているのだが それにもかかわらず プレ・スサノヲ的なちからのもとで これに 或る種の発展要因をはたらかせて成立するアマテラス価格は むしろ じゅうぶんに精神的な価値判断をおこなった結果なのである。まず そうである。
このとき人は 価値の主観内容としての創造=享受をではなく 《価格の》創造・所有を 目定として 走る。これは まだ むしろ合法的であり道徳的たろうとしているのであって そのように 《はじめに》単独分立した価格の社会的な創造の結果 結果として初めて 最初の目的の価値充足は 実現しているであろう 実現できるのだよと考えたわけである。
価格の総体である国民総生産とかその経済成長〔率〕が 主観充足の もし たとえ目的でないとしても 第一の手段だと信じてうたがわない。早くいえば まず景気をよくしてからでないと 何ごとも 始まらないと信じたわけである。衣食足って礼節を知るとさえ 言うではないかと。
これに対して 衣食の不足のときにこそ 人びとは 礼節を知っていたではないかという反論が 聞かれたわけである。この経済活動にかんする景気浮揚説とそのアンティテーゼとで いわば かんたんに言えば われわれの《はじめ》の過程的な総体の必然性の部分を ものがたっている。主観が有効であるなら 《はじめ総体》そのものを ものがたる。それは 相互対立的な主観関係の過程でもあるのだから。
そうすると 主観の判断形式という――そしてそこには 相互の対立が 基本単位の二角協働関係として 過程されるその――分析視角によって 価格の決定の仕方と仕組みを考えてきたのであるが インタスサノヲ価格の実際は おそらく この二角協働関係における主観判断の必然性の有力を まずみとめ さらに そのままで いわば開くことが 《はじめ》の自己展開だと考えられる。
道徳に従い礼節を知ることが われわれの目的ではなく あくまで おのおの自由な主観充足過程が 目的である。そのあとに 道徳が実行されているというか 人びとの徳が 現実のものとなっていれば それで よいわけである。価値創造の自由である二角協働関係の過程が 目的である。おそらく この目的は はじめの出発点の内容(形式)であり すでに この意味で 価格の決定のときに 目的たる過程は 始まっている。そして しかしながら 何ものかを 単独分立させないことである。もしくは 過程たる目的を それじたいを われわれから 単独分立させないことである。この目的は 小前提であった。
というふうに 《出発点世界》のいまの必然有力が 開かれていくこと ここまでは 経済学の交通整理として言うことができる。これは 価格決定という経験行為にかんして 議論しているのである。
この過程は 不足を許容していたのであるから 二角協働関係を主観から単独分立させないと言っても 何もかもを――その価格決定に際して――主観のもとに 従属させ支配することを 意味しない。むしろ スサノヲ基体たる主観から 価値充足の過程を あくまで或る種の精神(もっぱらのアマテラス精神)によって 対象化するだけではなく 分離させよ 分離させるなら われわれの協働二角関係は 十全に われわれの主観のもとにあると 人びとは これまで考えてきたのである。
そうするなら アマテラス発展要因を 合理的に人間的に はたらかせ得ると見たのである。このもっぱらのアマテラス精神の体得者は そこで 礼節を知り 人びとの鏡たる道徳家であると 一定の段階において 見なされていたのである。勤勉という徳の具現者だという考え方である。
経済学は 入り口の議論ではあっても このような主観関係の交通を整理していくことができる。まずこれをもって インタスサノヲ価格の実際だとしたいのである。
くどいように言って これは 実際の 価格成立の場における主観関係の問題である。そこでは 必然有力から むしろ離れず ただ まず それを開くこと ということは その場の主観関係は それじたいとしての協働二角関係を すでにおのおの 自己のものとしているはずである。対立もあれば 過程的に不足(分配の差)もあるのである。これが インタスサノヲ価格の実際である。
つまり このような規範的な議論が必要だという意味だが 規範が必要だということではない。《はじめ動態》の必然的な価格体系の有力を 客観的に分析し その経験法則を認識し これに対して合理的な判断をもって対処していくという経済学説は じつは この必然有力の価格・もしくは それに対する合理的なまた道徳的な対策を 規範としている。いや それは そうではなく 高々おまえが必要という規範的な議論にしかすぎないと反論されるならば そのばあい この反論がただしいとすると それでも これらの経済学説は 主観関係をではなく 客観関係を 規範的に議論している。
合理的な認識にもとづいた対策たる客観関係を――つまり もっぱらのアマテラス要因の部分を―― それぞれの主観とし主観の判断内容としている。そして これは もしたとえば 客観認識を自己の主観とすることが 経済活動の場でおこなわれ そのあとに・その場以外の私生活では あたかも別の主観が存在するということでなければ そうでなければ われわれの主張と合致する。すなわち ここにおいて スサノヲ基体の生活が経済活動の場(特に焦点として 価格決定の行為)とその以外の場(すでに成立している価格を ただ受容し消費する行為)との二つに 分裂しているのでないならば 従来の経済学説も あたかも《はじめ動態》の有力な必然的な価格関係を 離れるのではなく 開くのだという同じ見解を 入り口の議論に 持っていると言うことができる。
社会主義経済学は 資本主義経済の規範に対する批判から 始まっている。規範の揚棄を もし 国家に――《国家的な人間(国民)》という主観関係に―― 託しているのだとすれば それが 移行のひとつの過渡期だという議論は それなりに成立することはあっても 何もものがたらない。国家もしくは社会主義経済という前提は――《はじめ》の内容としてのそれは―― もう一つ別の規範なのであるから。
勤勉という別の徳を 主観関係の第一義としている。しなければ成立しないような――価格決定の――仕組みとなっている。資本主義社会の経済学説では 《もっぱらのアマテラス要因を 合理的に客観的に 追及するスサノヲ者》が 勤勉で徳の人であるという主観判断の規範が 少なくとも一時期 あった。もっぱらのアマテラス要因が 必然有力となったのだから これを開くというなら 規範をも解き放っている。そうでないなら いまは入り口の議論であり 主観判断の問題であるから いまただちに そうすることができる。
(つづく→2006-12-06 - caguirofie061206)