caguirofie

哲学いろいろ

#1

もくじ

§1 価格の成立
・・・a:本日
・・・b:2006-12-11 - caguirofie061211
§2 需要とは何か
・・・:2006-12-12 - caguirofie061212
§3 供給とは何か
・・・:2006-12-13 - caguirofie061213
§4 信用の理論
・・・a:2006-12-14 - caguirofie061214
・・・b:2006-12-15 - caguirofie061215
§5 経済成長とは何か
・・・:2006-12-16 - caguirofie061216
§6 社会という資本・資本という社会
・・・:2006-12-17 - caguirofie061217

§1 価格の成立a

ここでわたしが提出できるのは 主観経済学または主観関係の交通理論ともよぶべき一つの形而上学である。
はじめからの考えで 形而上学と言っても 経験行為の領域を離れてはいない。直前の一編が空想と見える以上に妄想と見られるかも知れない主観関係論を 経験科学に立って 提出してみたいと考える。
《価格の成立》という言葉は 価格も成立も 主観内容としての価格 またその主観内的な形成といった意味にも通じるように用いたい。モノの価格・それの個別的な企業(生産者)による決定・また市場におけるその成立といった 消費者たる主観の外における概念と あい通じるようにも用いたい。


価格が 需要と供給との関係から決まるというのは うそである。すくなくとも その関係から 価格を人びとが 決めるのである。あるいは もしも 勝手に決まってしまったとしたら そのあと仮りにこの価格の値いをもう決め直さないとしても 人びとは そうなのだとまず受け止めている。ここで価格が決まる。
けれども 一時的にせよ独占価格などの場合 需要とか供給とかに必ずしも関係なく 決める場合もあるだろうし あとから その価格で 供給と需要との関係・一致をはかろうとすることもあるだろう。
結局は――長期には―― この独占価格なども 市場もしくは政治経済的な社会環境によって 決め直されるという場合でも 完全な自由競争を想定しない限り 人為的・主観的な価格決定の要因を残すものと思われる。そして自由競争を想定するということは むしろ無主観的という意味での無政府的に 価格が成立するのではないということを言おうとしているのではないだろうか。生産者のにしろ 消費者のにしろ 経済生活にかんする共同自治としての人為的・主観的な要因を そこに見ようとしているものと思われる。
そして 第一に 価格は 人びとの生活費との兼ね合いで 決まる。生活費としては そのモノの消費・使用によって得られる効用のことであり 一般に(その限りで抽象的に) そのモノの持つ効用が 生活の全体の中で占めるべきだと考えられるところの・だから必要だと考えられるところの 一定の部分量である。これは 需要にほかならないのだが――そしてそのとき同時に 質の面も言っていなければならないとしても―― この需要は 生活によって・つまり生活する人びとの判断によって 決まるのであるから このことは 《需要と供給とか一定の価格を決める》ことに 先行したはずである。
つまり 主観の外の・無政府的な市場価格によって 主観は制約されるというときにも まだ つねに 生活者の主観は 有効である。制約されて有力でない・つまり無力であるというのも この先行する有効性を 消滅させたわけではない。自由競争・自由経済というのは この主観の有効性に立って言っている。
同じく 生活費としては モノを生産するのに必要な労働力の再生産費のことである。そして 使用価値(効用)が これを受け持つ。供給されるモノは その費用として 労働力(ないし広く生産力)の投入された〔質・〕量を その価値額〔の基本的な内容〕とするのであるから むしろ まずはじめに 上の需要に従属(後行)している。むしろこのことが 需要と供給との一致という市場価格を成立させていく。
いや 労働の意欲が つまりその意味で少し飛躍して供給が 先行するといいうときにも 意欲は労働を需要することにほかならない。ゆえに 価格の決定には 生活・生活費・需要(欲求・意志)が 先行している。そこには ミクロ的な経済主体としての主観が じゅうぶん からんでいる。
このあとで――これらの先行する事態のあとで―― 社会一般的な 片や需要の量と 片や供給の量とのすり合わせから 価格が 決まる。これは ミクロ的な主観のかかわらない社会マクロ的な交通過程の事情のもとでおこなわれる。言いかえると 需要と供給との関係だけからでは 価格は 決まらない。モノがすでに市場に出回り したがって一定の価格がそれにつけられているというその単純な事実は 生活に・そして生活の経済的な領域にすら 先行しない。(時間のあとさきとして 先行すると見ることはできる。)
この単純な事実は 社会生活の・そしてその経済活動の 試験的な事態ではあっても 価格の成立という経済学的な事態を推進していくものではない。経済学行為は ここに市販されたモノに 需要があると見込んで これを供給した人の 生活〔費〕観のなかに始まり――そういう場合は そうであり―― このモノを購入して消費する需要者 生活行為のなかにある。価格は ここで(生活の場で)成立しようとし しかるのちに 量にかかわり市場の交換の場で 決められていく。すなわち 人びとの生活が 価格の成立の基本内容であり(要因というよりは すでに 内容であり) たしかに生活行為が この経済学事態を推進していく。
言いたいのは 需要曲線と供給曲線の出会うところで 価格が成立するのではなかろう これである。じっさい問題として そのように価格が成立する(つまり交換価格が決まる)という場合でも この経験事実を抽象して 合理的な説明をあたえる精神(知解)の作業 において価格が成立するのではない。説明は 経済学行為ではない。むしろ 経済行為ではあるかも知れない。お仕事なのだから。
《いわゆる経済学》の作業は 社会生活の基礎的な認識として 必要また有益であるだろうが 言ってみれば それは 民俗学である。いな 民俗学も 学問として 生活の問題つまりその価値判断を つまり価格の成立ないし決定への実践を 扱いうるし 間接的にせよ扱っているのだから 需要供給の理論によるその同じ経験じたいの説明は 単なる民俗認識であるに過ぎない。風俗学であって 習俗・慣習の事実を ほとんどありのまま 説明したにすぎない。
経済学の前提(前提認識)だと言う人がいるかも知れない。けれども 前提ですら ない。試行錯誤の過程として 経済学の 付随的な後提ではある。生活によって成立を見た価格が 市場(もしくは中央政府)によって決定されていく。これが すべてだ。
人びとは この後提において試行錯誤のひとこまを捉え これに合理的な説明をあたえたと言って これを前提とした所謂る経済学の理論と政策へ あたかも詰まりあとさきを転倒させて 足のない幽霊となってのように 走ってきたのである。先行する現実と後行する理論的な事態とを転倒させる亡霊が わたしたちを 推進させてきた。
亡霊も霊(精神)であり この精神のもとに走り出した経済学者も 人間は人間であるのだから それぞれの生活観を持っているし 生活費の主観的な理論を提出しなかったわけではない。ただ転倒させた というのであって 足のない幽霊の生活費理論は それなりに 推移してきた。かれらは むしろ 経験現実そのものに付き過ぎている。この言うところは 外的な経験現実そのものを精神の現象なる経済学理論にとって代えた そうして経験現実に再突入する。転倒とは このことだ。
精神の現象として執り行なわれるところは そのように想像裡で合理的に理解されうるところはみな 現実である だからそれが 経済学行為であると踏んだのである。この精神主義の精神が 地上でおこなわれる経験現実に取り憑き――それは 対象としては突き放すゆえに その抽象的・客観的な想像じょうの事態(たとえば 利潤率とか国民総生産とか)に依り憑くかたちともなり―― しかも天を翔ける。アマガケル精神が 現実を経済学という・じつは風俗学の理論体系におさめ 経済活動を誘導してきた。需要がではなく 需要の統計と理論が 生活を構成し 供給を呼んで価格を決定すると かれらは経済学している。価格はまだそこでは――もう そこでは――成立していないと言わなければならないと同時に 頭で立ってさかさまの恰好で 成立させてきたのである。生活がなくなったわけではないから そして生活は どんな幽霊が来ても つねに いとなまれているゆえ これらの経済学におつきあいしてきたわけである。
経済学へのこういう新しい需要が いま あって これに供給つまり理論があたえられれば 価格つまり社会生活は またあたらしく成立していくであろう。
〔客観〕精神主義が とりもなおさず 肉体主義つまり 経験現実主義ないし物質主義なのである。生活は 身体ないしモノが つまり経験現実が 基礎である。わたしたちは 幽霊でもなければ 身体主義ないし主観主義ないし効用主義でもない。

或る人が需要する。この需要が供給を呼ぶ。この供給が他の人びとの需要によって むかえられる。ここで 価格が成立し始める。しかるのちに たしかに需要量と供給量との関係から 価格が決まる。だから その需要量も供給量も 需要者市民ないし供給者市民が すなわちいづれも一般の生活市民が すでにそれぞれ一たん経済学行為し終わった需要であり供給である。経済行為じたいは そのあと 交換・消費としてつづくとしても。
市民一人ひとりが 経済学者なのであって そうしようもなくそうなのであって この経済学行為において 価格が成り立つ。そして むろん経済学は経験科学なのだから ここに成立した(需要が起こり供給の可能性が潜在したところの)価格は 経験的に その後の過程にのっとって 決められていく。価格のこの決定について 現状にもとづくなら 中央政府の計画による統一価格から 市場過程にまかせられた自由な決定までの幅がある。
そしてこの現状にかんして言えば 計画経済と市場経済いづれにも 公正取引委員会のような社会的な役割は必要であろうから それが受け持つところの・価格決定についての理論や政策は 経験科学としての経済学の行為に含まれると言わなければならないが それは はじめの価格成立にかんする付随的なまた後行する作業なのであって むしろ言うとすれば法学の問題だと 基本的に 考えられる。
言いかえると 市民生活において社会(分業社会)的に成立する価格は 抽象的な精神作業における理論行為のなかにあってよいのであり この行為一般が 経済学である。主観外のマクロ的な理論による説明の中には まだ ない または もう ない。まだというときには 風俗学はあり もうというときには 法学がある。また 理論行為の中にあるというのは すでに何らかの価値判断をおこなって いま何らかの行動を起こそうというときの その理論作業のことである。精神の現象が経済学だと言ったのではない。
市民は社会的に交通しあうから この交通の過程で成立する(独立主観の中で理論作業として かつ 主観関係として 成立する)価格をめぐる人間的な側面 これを特に考察するのは 倫理学である。つまり倫理学は 交通一般の経験法則や具体的な規範を取り扱う。社会が法治社会であるなら 交通規則の規範化・法律化も 必要に応じて 考え出され掲げられるであろう。これは 法学の問題である。
価格の成立は 倫理学一般の経済学的な領域であるとも言えるし 倫理学をむしろ従えた経済学固有の行為であるとも言うことができる。分業社会には 倫理学一般の法学的な領域もあるように――法律として掲げられた交通規則であり その違反に対する社会的な強制力による処罰の側面もあるように―― 経済学行為の法学的な領域もとうぜん おこなわれる。それは 一般に 経済学行為として成立する価格の具体的な決定・流通にかんするものである。同じくそれは 経済学行為の倫理学的な領域から出発していたものであろう。
ここに言う価格は 抽象的な概念として価値のことを 含ませようとしているのだが
(未完→2006-12-11 - caguirofie061211)