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哲学いろいろ

#13

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方法としての人麻呂長歌(その三)

人麻呂の《妻 死(みまか)りし時 泣血哀慟して作る歌》(207)については ここで割愛する。これを取り上げるには 詳しい背景の説明が必要となるのが その第一の理由である。

  • これを われわれもいくらか取り上げた《隠せる妻》との対関係形式の問題として論じる玉城徹《万葉を遡る――柿本人麻呂をめぐって――》に譲りたい。

万葉を溯る――柿本人麻呂をめぐって――
著者:玉城徹
出版社:角川書店
サイズ:単行本/307p
発行年月:1979年06月
ISBN:4048840428

まず 《采女(うねめ)の死》をうたう次の歌 なぜなら 采女であるから当然のごとく A圏にまだ直接かかわる場合の長歌であると思われ これを取り上げることにする。長い引用詩ばかりであるが おつきあいいただきたい。采女とは アマテラス圏が スサノヲ圏からさし出させる女のことである。

   吉備の津の采女の死(みまか)りし時 柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 併に短歌
秋山の したへる妹
なよ竹の とをよる子らは
いかさまに 思ひをれか
栲縄(たくなは)の 長き命を
露こそば 朝(あした)に置きて
夕(ゆふべ)は 消ゆと言へ
霧こそば 夕に立ちて
朝は 失(う)すと言へ
梓弓 音聞くわれも
おぼに見し 事悔しきを
敷栲の 手枕まきて
剱刀 身に副(そ)へ寝けむ
若草の その夫(つま)の子は
さぶしみか 思ひて寝(ぬ)らむ
悔しみか 思ひ恋ふらむ
時ならず 過ぎにし子らが
朝露のごと 夕霧のごと
(217)
  短歌二首
楽浪(さざなみ)の志賀津の子らが 罷道(まかりぢ)の川瀬の道を見ればさぶしも
(218)
天数(そらかぞ)ふ大津の子らが逢ひし日におぼに見しかば今ぞ悔しき
(219)

ここでは A圏に対するあからさまな抵抗がうたわれている。
A圏の恋は A圏の恋なのだ――S圏における一般スサノヲ市民の恋とは違う恋をするアマテラス族もいるのだよ――と かつて会う機会があったときにはっきりと告げてやればよかったと《時ならず過ぎにし》この采女に対して 追悼する。新しいA圏‐S圏から成る二階建ての国家というA-S連関形態は そのように発進したんだと はじめの方法を確認したげである。スサノヲイストの面目躍如たるものがある。
次の長歌一編は この詩のすぐあとに置かれる。

   讃岐の狭岑島(さみねのしま)に 石の中に死(みまか)れる人を視て 柿本朝臣人麻呂の作る歌 併に短歌
玉藻よし 讃岐の国は
国柄か 見れども飽かぬ
神柄か ここだ貴き
天地 日月とともに
満(た)りゆかむ 神の御面(みおも)と
継ぎて来る 中の水門(みなと)ゆ
船浮けて わが漕ぎ来れば
時つ風 雲居に吹くに
沖見れば とゐ波立ち
辺見れば 白波さわく
鯨魚(いさな)取り 海を恐(かしこ)み
行く船の 梶引き折りて
をちこちの 島は多けど
名くはし 狭岑の島の
荒磯面(ありそも)に いほりて見れば
波の音の 繁き浜べを
敷栲の 枕になして
荒床に 自(ころ)伏す君が
家知らば 行きても告げむ
妻知らば 来も問はましを
玉鉾の 道だに知らず
おぼぼしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは
(220)
   反歌二首
妻もあらば採(つ)みてたげまし 佐美の山 野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや
(221)
沖つ波来よる荒磯を 敷栲の枕と枕(ま)きて寝(な)せる君かも
(222)

さらにこのあと つづいて人麻呂の《石見の国に臨死(みまか)らむとする時 自ら傷みて創る歌》(223)が載せられ この歌との関連で 人麻呂じしんの水死説が出るまでに至った。関連はあるだろうが  たぶん無理だろうとして 人麻呂の最期とこの臨死自傷歌との問題は われわれはすでに論じた。ひと言繰り返すなら 人麻呂は あるいはA圏からの政治的な受難を喫したであろうかも知れないが 先の吉備津の采女の挽歌にも見る如く A圏による刑の宣告に対して 仮りの(仮象的な)社会的行為であるとの立ち場を堅持して 《鴨山の岩根し枕けるわれをかも ----and I ? Ask me not who I am. 鴨山で死んだかも?》と歌って スサノヲイストの韜晦(言語二重性)の道をたどったと考えられる。
いづれにしても 事はそのように ラディカルである。したがって この狭岑の島の或る横死者に対しても 追悼を詠むべく しかもこのように 長くうたわねばならかった。この段階を経過しなければ 短歌形式としてのうたの構造の表現が成らなかったのである。逆に言えば 短歌三十一文字のうちに 社会関係の問題に対して 個体として和(こた)へること――社会としての株主総会への発言――は この長歌形式および旋頭歌の過程を通らねばならなかったと思われる。
しかしわれわれは 今日 原理的には ヤシロとしての自由な株主総会への参画を享受する情況にあって もはや人麻呂を超えてしまったとも言わなければなるまい。だから 人麻呂長歌は 長々と引用してきたが この情況でこのことの確認のためにのみ有効なのである。
それにしても 芸術的もしくは文学史的な意義を もう少し元にもどって捉えなければならないかも知れない。
読者は しかしこの項では わたしの筆のはぎれの悪さを感じることかも知れない。ともあれ もう少し 別の人麻呂長歌を用意しなければならない。わたしたちは ここで 巻二の挽歌から巻三に移ってその雑歌の部のそれを引き続いて取り上げたい。
(つづく→2006-08-27 - caguirofie060827)