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哲学いろいろ

#14

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

方法としての人麻呂長歌(その四)

巻三に移ってその雑歌の部の挽歌を引き続いて取り上げたい。

   長皇子(ながのみこ) 猟路(かりぢ)の池に遊(いでま)しし時 柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 併に短歌
やすみしし わご大王
高照らす わが日の皇子の
馬並めて み猟立たせる
弱薦(わかこも)を 猟路の小野に
猪鹿(しし)こそば い匍(は)ひ拝(をろが)め
鶉こそ い匍ひ廻(もと)ほれ
猪鹿じもの い匍ひ拝み
鶉なす い匍ひ廻ほり
恐みと 仕へ奉りて
ひさかたの 天見るごとく
真澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど
春草の いやめづらしき わご大王かも
(239)
   反歌一首
ひさかたの天ゆく月を網に刺しわご大王は盖(きぬがさ)にせり
(240)
   或る本の反歌一首
皇(おほきみ)は神にし坐(ま)せば真木の立つ荒山中に海を成すかも
(241)

ここでは じっくりと歌を鑑賞していきたい。
長の皇子は 天武の第四皇子。弓削の皇子の兄。霊亀元年(715)没。そして 歌の内容に入るためには この後につづく短歌を あわせて捉えなければならない。ここでは原文表記をすべて省いているが いまそのようにしてまず引用するならば――

   弓削の皇子 吉野に遊しし時の御歌一首
滝の上に三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに
(242)
   春日王の和へ奉る歌一首
王は千歳に座(ま)zさむ 白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
(243)
   或る本の歌一首
三吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに
(244)
   右一首 柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。

これら三首が ただちに上の長歌一編に編集上 和していると思われる。
全体の空気は きわめて不穏である。(《空気》などという言葉は使わないようにしていたが ここでは 使った。)しかも人麻呂は 持統朝にあって 天武の諸皇子にあとから後から 長歌を呈して執拗に迫っている。株式会社=社会形態が確立されたのだから いいんじゃないかという・聞こえてくるような咎めにもかかわらず 頑迷でさえある。
239番長歌で 《猟路の小野に ししが匍って礼拝しており 鶉が匍いめぐっているが そのししのように匍い拝み 鶉のように匍いめぐって お仕え申しあげる》と述べるが これについては 《天武朝の時 跪礼と匍匐礼とを止めて立礼を用いることにしているから 持統朝では匍って礼拝することは旧式な儀礼となっていた》(大系)ことが 判明している。
人麻呂は 前古代市民から古代市民への移行について 積極的な立ち場に立っていたはずである。しかもここでは 旧い時代に戻るかのように 執拗である。長歌形式は おおむね こうである。いま一度言いかえれば 長歌形式では 新しい古代市民の誕生を見守る地点に立って しかもその現行A圏に対しては不満である。方法が 滞留しているのを見る。
仮りに 人麻呂には 政権の中枢へと近づく野心があったのであろうか。しかし これまでの歌いぶりからして この推測は 容易にしりぞけられる。
240番の反歌で 《月を盖(うしろにさしかける傘)にしておいでだ》とうたったのを取って 人は 人麻呂を代表的ないわゆる宮廷歌人とし それ以上に アマテラス専制への讃美者であるとする。これは もとより当たらない。

  • 巻三巻頭の《大君は 神にしませば天雲の雷の上に廬らせるかも》(235)の歌についても アマテラスないしアマテラシテへの絶対讃歌などではないことは すでに述べた。つまり かれは A‐S連関形態の全体としての動態を見守る地点にある。
  • またそれは 一古代市民としては その共同自治様式のはじめの原理=カシハラ・デモクラシを前にすえることによって A者をその神学のなかで ひとつの位に位置づけようとするのみである。

それでは 問題は何か。長歌形式において 人麻呂がうたわねばならなかったものは 何なのか。これまでに見た種々の短歌(それぞれの歌群)と当然つながってあるのだろうが 一見して自明であるのではない。
239番の長歌で その《わごおほきみ》の原文表記は 第二句を《吾大王》とし 最終句は《吾於富吉美〔可聞〕》とする。これから考えれば かれは自分を社会科学(政治経済学)主体に擬して その資格から 諸皇子にアマテラス行為の理論を講義しようと欲しているかのごとくでさえある。あるいは そうかも知れない。共同主観主体としてはありうることである。まだ必ずしもその立ち場にはなかったので この長歌形式において その意思を表わそうとしたのかも知れない。
しかしひるがえって スサノヲイストは S圏のヤシロの動きとこそ共にあって その立ち場でのみスーパーヤシロに働きかけることのほうが 筋である。政治経済学者になることとは 微妙にちがう。しかし この古代市民の時代にあって S圏連合が主導的な地位を得ることは難しく その条件の中では上に考えられたように振る舞ったのかも知れない。
それにしても 人麻呂は 《恐れ多いとてお仕え申しあげて 大空を仰ぎ見るように仰いでいくら見ても 春萌え出す草のなつかしく愛らしいように いよいよたたうべく わが皇子である》(239)と 現代から見れば ばかにしたとも受け取られるような歌いっぷりで アマテラス行為の講義をおこなおうとするかのようである。もっとも A者に対するこのような態度ほど A−S連関形態の視点に立って見る限り うやうやしからざる姿勢というものはない。
そしてS圏のA圏に対するこのような態度は このような古代市民の時代の流れを受け継いで いわゆる《お上として敬して遠ざける》現代にも見られる一つの様式となって実際である。また逆に このS圏固有の態度に対して A圏はそれ独自の固有の論理をもって 社会形態の全体についてその主導性を発揮するというかたちなのである。
もしこのようなA圏とS圏との古代市民的な自治様式以来の連関形態が 本質的に行き詰まっているとするなら われわれの言うその連関のかたち自体を改めて再編成すべきであるという議論に傾くであろう。
けれども 次の長歌には 人麻呂の不満が消えている。これをどう解釈するか。
(つづく→2006-08-28 - caguirofie060828)