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哲学いろいろ

#33

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

われわれはなぜかしこくならなければならないか(その三)

次つぎと 未掲出の歌について考える。巻三・挽歌の三首。

426 草枕 覉宿尓 誰嬬可 国忘有 家 待真国
草枕旅の宿りに誰が夫(つま)か国忘れたる家待たまくに

《柿本朝臣人麻呂 香具山の屍(かばね)を見て 悲慟(かなしび)て作る歌一首》である。
これは 巻三・挽歌の第一歌である。《上宮聖徳太子が竹原井に出遊しし時 龍田山の死(みまか)れる人を見て悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首》と参照させれば ことは足りるであろう。

415 家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人可*1
家にあらば妹が手まかむ 草枕旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ

この聖徳太子作と較べる上では それぞれの題詞の《悲慟》と《悲傷》との異同に応じて 鑑賞すれば その相聞のちがいが導きだされるのではないだろうか。わたしには 撰者が 片や《香具山の屍》と言い 片や《龍田山の死人》と言って その死のカテゴリを区別してさえいると思われる。もっとも《たつた山》が 風・嵐・雷の《龍》に擬していないとも限らないが 《カグヤマ》では この《龍》をも内に含んでいる。
すなわち 一方では 自己を感情的なものへ用い尽くすがごとくであり 他方では それを受け取ることによって歌をうたい出している。聖徳太子の歌は かれ自身またその歌じたいが問題ではなく 歌が こうして共同相聞歌へとみちびかれる契機を宿すところに スサノヲイスムとの漕ぎ別れがあるように思われるのである。

  • 溺れ死にし出雲娘子(をとめ)を吉野に火葬(やきはぶ)る時 柿本朝臣人麻呂の作る歌二首
429 山際従 出雲児等者 霧有哉 吉野山 嶺霏微
山の際(ま)ゆ出雲の児らは霧なれや 吉野の山の嶺にたなびく
430 八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆颯
八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ

《大系》の頭注では 《火葬の煙がめずらしかったので〔このような挽歌にしてうたったので〕ある》と評している。火葬は ブッディスムに関連する。新しい一種の広い意味での相聞のかたちである。ブッディスムは 聖徳太子に関連する。または 聖徳太子につなげられて関連する。出雲娘子が溺れ死んだのは この火葬を 新しいかたちとして広めたいがために 死へと誘導してまでも この出雲娘子に白羽の矢が立った結果であるとは充分に考えられる。現在では この共同相聞歌の犠牲にならないようにこれをただ避けるのではなく 共同相聞歌をこそ誘導することが必須である。
《山の際ゆ》は 山の際から。《霧でもないのに霧のようにたなびくことになった》。
《八雲刺》は 八雲立つに同じ。《なづさふ》は 水の上に浮いて漂う。風のさっと吹く音を表わす《颯》は ものの盛んなさまと衰えていくさまとの両様の義を含んでいる。《豆》は たかつきで木製の食器。《吉野川の奥にその名が風のごとく吹いた》と言うのであろう。ただし われわれは 怨霊史観とちがうところは A圏への討伐に乗り出すというのではなく A圏‐S圏の連関のかたちを再編成しようと言うにある。
それが 出雲娘子へのとぶらいと信じるからである。相聞は ここにまで及ぶ。
言いかえれば したがって 巻二の諸皇子・皇女への長歌形式の挽歌も この相聞のかたちを採っていると考えてよいであろう。ただ これらでは 相手がアマテラス圏の住人であることにおいて 複雑である。いま 詳説しない。
なお 挽歌の428番(《土形娘子を泊瀬山に火葬る時の歌》)は 省略にしたがう。また 雑歌の303・304番(《筑紫の国に下りし時 海路にて作る歌二首》)も同じく省略。また巻三では その他に 423番(《石田王の卒(みまか)りし時 山前王の哀傷びて作る歌》)に対して 《右の一首は 或るは云はく 柿本朝臣人麻呂の作そといへり》とあるが これも省略しよう。
巻四の相聞歌 二組七首(496〜499 / 501〜503)ははじめの一組はまだ触れ得ないでいるが そのこと自体は すでに触れた(玉城徹《万葉を遡る――柿本人麻呂をめぐって――》参照とした)。後の三首は省略したい。
次に 巻七では 雑歌(十八首)・旋頭歌(二十三首)・比喩歌(十五首)の三歌群すべて取り上げた。

  • もう一章 初稿にあったが それをいま省略している。そこに 旋頭歌などを取り上げていたもの。

巻九に移る。
次の四十八首が それぞれほぼ独立歌のごとく載せられている。

  • 雑歌三十八首(1682〜1709;1710〜11;1720〜1725;1761〜62)
  • 相聞五首(1773〜75;1782〜83)
  • 挽歌五首(1795;1796〜99)

このうち 雑歌三十八首の中で 1761−62番の長歌反歌はすでに述べた。1710−11番の二首は 《或るいは曰はく 柿本朝臣人麻呂の作なりといへり》とあるその消極的であることによって 基本的には取り上げるに及ばないもののようである。
1725番は 《麿の歌一首》という題詞があって これこそは 人麻呂がその歌集として 他者の作をも覚え書きしておいたものであろうと思われる。つまり作歌主体を明確にすることによって 他のかたちでのたとえば民謡をもとにして自身の歌として作ったものと区分されるべきであろう。
1720番から一連の六首が 人麻呂歌集の歌であるように考えられる。(《右のものは・・・歌集に出づ》という《右のもの》の範囲の問題である。)いづれにしても これらでは 作歌主体が明記されていることにより ここでは省略できるとしてよいと思われる。
したがって雑歌では 最初の歌群・1682〜1709番の二十八首について触れておくべきであろう。この歌群では やはり1720−25番の場合と同じく《右のものは人麻呂歌集に出づ》と左註されるものであるが ほとんどみな作家主体を明かさないものだからである。だが これらはしかし 基本的には一般性を持たない歌であるように考えられる。玉城徹は 前掲書《万葉を遡る》の中で 人麻呂は 木材運搬の職人(職人長)に近い存在であったと考え ここでの歌は 藤原の宮の造営のための木材を 近江から 宇治川・淀川等を下って運ぶ仕事にあたる職人らについて行って その土地土地で詠まれた歌を集めたそれらだと おおむね している。

  • 《藤原宮の役民の作る歌》巻一・50が参照される。

人麻呂じしん職人であったかどうか いま詳らかにしないが 歌の内容としては この玉城説にしたがうことができると考える。おそらくこれら職人たちの歌を集めたもののように考えられる。

  • たとえば《名木川にして作る歌》の中の
1688 炙(あぶ)り干す人もあれやも濡れ衣を家には遣らな 旅のしるしに
炙って干す人もいないのに旅先で雨にぬれてしまった衣を家に送ろう。旅の印に
  • これは 木材を運ぶ人びとの土地先での感慨をうたったものであろうという理解である。

だから ここでの作歌主体の無記名は 微妙である。
それは ここの歌群では 上の《泉川のほとりにして――1685−86》《鷺坂にして――687》《名木川にして――1687−88;1696−98》《高島にして――1690−91》等々という土地土地で詠まれたこの種の歌とは別様に 《忍壁皇子に献る歌――1682》《舎人皇子に献る――1683−84;1704−05》等々も しかし両者入り交じって 存在するからである。
皇子に献ったのは 人麻呂であったかどうか わからない。しかし これは措いても これら皇子(ほかに 弓削皇子も)も この木材運搬の作業現場に監督としてやってきたのであるかも知れない。その土地のその席で 詠まれ献られた歌であるように考えることができる。これは いま詳らかにせず 歴史的な事実としてあたっているかどうかも わからない。しかし ここで要は これらの歌群は そのような場での人びとの――あのヤシロの原理とは別だと言うのではないが その一般性からは別だとすることができる――歌であると考えられることである。したがって この意味で 1682〜1709番の歌群は 取り上げない。
巻九・人麻呂歌集・相聞五首は はじめの三首が 次のごとく。

1773 神名火の神依板に為る杉の思ひも過ぎず恋のしげきに
  • 人皇子に献る歌二首
1774 たらちねの母のみことの言にあれば年の緒長く憑(たの)み過ぐさむ
1775 泊瀬川 夕渡り来て吾妹子が家の門にし近づきにけり

これらは 必ずしも情況もしくは主題が わからない。そこで それぞれ一首としての歌の大意を取っておくことも いま しない。
相聞のあとの二首。

  • 妻に与ふる歌
1782 雪己曽波 春日消良米 心左閇 消失多列夜 言母不往来
雪こそは春日消ゆらめ 心さへ消え失せたれや言も通はぬ
    • 雪こそは春の日に消えもしようが 心までも消え失せたからか(そんなはずもないのに) 言葉すら行き来しないことであるよ。(大系)
  • 妻の和ふる歌
1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麿等言八子
松反りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ 麿といふ奴
    • ばかになって〔=しひて(しびれる)〕しまったわけではなかろうに 中上(のぼ)り(国守が任期中に一度 京にのぼることのたぐい)をして私のところへ来もしない 麿という奴は まあ。(大系)

次に 挽歌五首。
このうち 《紀伊国にして作る歌四首(1796〜99)》は 巻二の挽歌(207−209;210−212;213−216)のそこで歌われる相手と つながりを持つと思われ 玉城徹の前掲書に拠りたいと思う。また ヤシロロジの基本的な展開をうたった歌ではないので 人麻呂じしんの 歌の中の相手との全体的な交渉のストーリをその説明には必要とするだろう。玉城は そこでよく説明しているように思われる。これは すでに論じた巻十一・旋頭歌の《わが隠せる妻》の主題 というよりも 人麻呂の人生とつながったそのかのじょとのラヴストーリと考えられ ここではこれを追体験することはしない。

  • この旋頭歌(2351〜2362)では ヤシロの原則に沿って歌われ この挽歌(1796〜99)・巻二挽歌(207〜216)もしくは巻一《京に留れる歌(40−42)》等で 《隠せる妻》として 互いにつながったものとしてあるだろう。

残った挽歌一首。

  • 宇治若郎子(わきいらつこ)の宮所の歌一首
1795 妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟
妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木は古人見けむ
    • 妹のもとへ今来るというので 今木の嶺に松が繁り立っている。古の人も見たことであろうか。

もしこの歌に うたの構造を見ようと思うなら そのときには 一つに 巻七・1118番《いにしへにありけむ人も わが如か 三輪の檜原に挿頭折りけむ(または 折りかね)》の歌 および 一つに巻一・7番《秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京の仮り廬し思ほゆ》の歌が 参照されるべきであろう。
宇治の若郎子(応神帝の太子。仁徳天皇の異母弟)の物語を題材として 額田王(7番)・天智・天武・人麻呂そして後世の撰者の視点を介することによって 宇治の若郎子(つまり 《古尓有り険む人》・《古人》にあてられる)の場合は 

そのアマテラス位を オホサザキ(仁徳天皇)に譲るということによって A圏の挿頭を折らなかった――《妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木を見るごとく》相聞の世界をよしとした。だから この場合 その宇治の京は かれにとっては 《仮り廬》なのでもなかった。

という一つの視点としての前古代市民的な時代への理解を表わし したがってもう一方では 古代市民としての当時の視点として 1118番の次の歌《手折らねば うらぶれ立てり》(1119)に 《うらぶる(わびしく思う)‐裏触れる》の構造的な二重性を持たせたという理解 これは この1795番の歌が 挽歌としての相聞であることにおいて このような両面の理解が語られているであろうということになる。
けれど われわれは 現代において 天武が天智にA圏を譲り その近江朝を《仮り廬》と見たという撰者の視点は じつは 事後的な史観なのであって また それに対して《裏触れ立つ》の語句は このような《仮り廬》ないし過渡期といった視点とは ほんとうには なじまないというふうに理解すべきである。

  • 原則から言って われわれの三一性は 時間過程的な三位一体ということになる。時間の間隔をへだてて 全体として 三位一体のごとく成り立つように見られるというものである。要するに 不完全な三位一体である。

それでは 巻九を終わって 次に移ろう。
(つづく→2006-09-15 - caguirofie060915)

*1:りっしん偏に可